解決済みの質問
神がいる(自分はいない)、神はいない(自分がいる)、という考えは、先天的な直感に基づくものなので、議論しても仕方がない、という話です。
理屈で四の五の言っても仕方がない、という話です。というより逆で、この2つの先天的なフィーリングが、その上に積み上げられる理屈と論理の基礎となる感覚である、と判断します。
この2つの直感のことを、関係直感と存在直感と呼んでいます(仮の呼び名)
こんな話ですが、興味のある人はおられますか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3690161.html
こちらのほうで大体同じ話をしてるんですが、このときとは切り口が違うので、言い方を変えると通じるかも、と思ってここではこういう言い方をしてみました。
大雑把な表現ですが。
ご意見お聞かせください。よろしくお願いします。
投稿日時 - 2008-02-27 04:37:03
2です。お返事を興味深く拝読しました。
なるほど、認識・把握する以上は、客観とみなし、
体感や感受性をよりどころにしたものを、主観とよんでおられるのですね。
ご提示の「関係直観」も悟りまでいくと、痛み苦しみも我が事とならず、
自殺・安楽死を考え直す契機になるやも。などと思ったりしておりますが。。。
禅学での直観、したがって京都学派などでもそうですが、
また、スピノザとドイツ観念論からリッケルト、ベルグソンあたりにあつかわれている直観のテーマが、
ちょうどsheep67さんのいう主観に近いように思われます。
わたしは現象学、象徴、エゾテリスム、精神医学史が専門で、哲学には明るくないですが、
主観というと、構成力の高いものとしておく立場です。
感覚の構成もふくめ、フィクションの場を作り出すものとなります(間主観)。
とはいえ、もっとつきつめれば、
自我の破綻した患者が、主体を把握できない場合にも、感覚をたばねる「何か」があるかもしれません。
チンパンジーやボノボノやイルカの場合にも想定できる可能性があるのですけれども、
それが、主観と名付けてよい「何か」である可能性もありますね。
このようなとき先端的な科学は神学に限りなく接近します。
また、わたしの場合、客観とは、認識や把握をつかさどるものとは考えない立場です。
2で、関係性があるからわたくしがあり、わたくしがあるから関係性がある、という話をしていますが、
Aさんが絵を見るときに、Aさんの脳は絵との関係自体だけをインプットしており、
色や形や大きさ、距離や雰囲気、嗜好、価値など、主観における感受性が、Aさんだけの特設絵画鑑賞劇場を構成します。
そしてBさんは、Aさんと絵のあいだに起きている関係自体を見ることができないのですが、関係を推慮することはできます。
さらにまたBさんは、不特定多数の他者とその絵の関係を推慮することもできます。
この関係推慮を客観とみなします。AさんイコールBさんの場合も含まれます。
客観は、事象・物象などの対象自体を認識し把握するものではなく、
一主観とそれらとのあいだに結ばれている関係そのものの諮問機関となります。
なので、たとえばトイレットペーパーを見たときに、これはなんだ、とゲシュタルト崩壊の異様な新奇感をおぼえたとしますと、
主観はダメージを受けていますが、客観はダメージのありかたそのものを参照する力なのです。
そして、一定の文化的背景をもつ範囲内では、不特定他者と事物が、同じ関係を結んでいるという社会的合意がありますから、
客観には、あたかもイコール普遍的な事実であるかのように思われやすい性質があります。
sheep67さんの所現の問い、こういってよければ、唯我と忘我の問いは、
現象学や精神医学では、クサいので蓋をしています。
原因があり、同じ機序があり、同じ現象に至る、
というステップがあるとしておくのが近代科学に共通する考え方ですが、
じっさい現象から見返した場合には、機序を、原因の代替とします。
現象の消滅は、機序をブロックすることによってもたらされますが、
もちろん原因を消滅させることによっても成り立つはずです。
唯我においては自己の死をもって現象の消滅があり、原因に到達したようにみえますが、
唯我の死は、ねじを切ってオルゴールが止むように、一個の機序そのものの消滅として現象の外にあり、現象の原因は先送りされます。
また、忘我において、自己の死は、一個の関係の場の消滅として、現象の内に含まれて有り、
忘我の死は、場の喪失によって現象の機序をブロックするものですが、やはり原因は先送りされます。
ご提示の「存在直観」「関係直観」を、生死を現象の外とみるか内とみるか、と読みかえるとき、
不毛なのか豊かなのかわからない穴をかかえこんだブランショの思考が思い起こされます。
投稿日時 - 2008-03-05 01:39:08
補足
再度の回答ありがとうございます!お返事読むのが楽しいです。
まず、哲学の専門用語は難しいな、と思いました。
難しく書くことと、優しく書くこと=絶対と相対、はこの世界の仕組みです。カリスマも、人気アイドルも、ブランド品も、現実という絶対感覚を使っています。自分は世界にただ一人の尊い存在ー自分の考えは他人にまねできない唯一のものーレッテルを貼り専門用語を使うーというのは、相対的でとらえどころのないものを、有限で把握できる物に変えることで、捉え、それに集中し、考えを深めます。それが行き着いたところで相対化ーーそれはありきたりのもので、子供でも知ってる物に変えます。絶対化は、対象としてそれに集中して深めるのに必要です。2つは相互乗り入れをしていて、2重の無限です。というのは、深くて狭い井戸のように縦穴を際限なく掘るイメージと、それが常識として横へ無限に広がる、という2つの無限感覚があるからです。
絶対感覚=プライドと、相対感覚=無私、私はいない、という2つの感覚は、この意味において把握以前の存在として、同じものです。
別の言葉だと、絶対=集中力、相対=大局観、といえます。視野を広くすることと、一つのことに集中することの2つの使い分けが大事なのは常識ですよね。
主観と客観は、2つは同じものですが、それを把握する、それってなんだろうと思ったときに2つに分かれます。というより、人の認識能力が、その本当にある一つのものを、主観と客観という2つの切り口でしか把握できないからです。どこかの物理のパクリではないですよ。ほんまです。
自分と他人も、同じものですが、投影という機構を使って。でもそれは把握の対象となった瞬間、2つの別のものになります。それはもう、認識能力の限界で仕方ないです。現実に、別に見えるのだから、本当にそう観察されるのだから、それは2重の意味で存在している、存在そのものの、そういう性質です。心理学的な投影という概念における中心的役割である「ミラー」は、把握、認識という心の仕組みそのものです。
仮説でもいいので、これを頭に入れて、世界の仕組みを再構築すると、滅茶苦茶世界は簡単になります。というか簡単でなければ、過去の偉人が真理をつかむと言うことはできません。仏陀もイエスも、別に普通の人より頭がいいわけではないので、その理解とはとても単純なものです。微分積分やマルクス経済学くらい難しかったら、もう普通の人の手には負えないです。イエスも仏陀もただの人ですので。主観客観系の仕組みはもっとずっと単純です。問題は論理的難しさでなく、感覚的難しさーいわゆる常識の壁、ですね。問題の難しさの本質が常識の壁だからこそ、それは子供でも理解できる内容になっています。言葉を必要としないので。というか、赤ちゃんなら全部知ってるだろうと思っています。常識の壁や嘘は生きてる中で作られるので、まだほとんど生きてない赤ちゃんはすべてを実感してるやろうなと思います。ここで、早く赤ちゃんに戻りたい、とかいうと、おかしな人と言われるわけです。でもイエスも言ってますー赤ちゃんみたいじゃないと、天国には行かれへん、と。ほんまやなーとしみじみ思います。この辺りから、上で書いたのですが、生まれてく死んでいくというのと別問題として、赤ちゃんは「あの世」にいる、とかいう話も出てきます。人はあの世から来てあの世に戻るのですが、それは物質的な生死とは無関係です。
文脈がむちゃくちゃですがとりあえず訴えます。
感性と把握は裏表で、相互乗り入れをしている、というのはいいでしょうか?でもその裏表と相互乗り入れの形、フラクタルや複雑ネットワークの形式は、把握によって生じます。把握は単純な存在を、ありえないくらい複雑にする素晴らしさがあります。把握と感性は同じですが、見方を加えるーことで、2つに分裂します。そして同じものをそうとしか捉えられない直観の把握能力は、2つが相互乗り入れしてるようにしか認識できません。同じ2つのものが、お互いにからみついているような形でしか捉えられません。だまし絵をご存じですよね?あの絵では、女の人とおばあさんは全く同じものです。見方の問題です。つまり把握ですが。言い方を変えると、把握はこの世、感性はあの世、といえます、言えるというかそのまんまですが。ーー暴走してますねー。よくおわかりの人には突っ走ってしまいます。
視点、視野、把握、が働いた瞬間、あの世がこの世になります。言い換えると、意識の消失ーそれは、睡眠時に意識を失うーと観察されるのとは別の境界線ですが、あの世とこの世の境のように・・把握や意識が脳の機能として働かない、ということは、あの世にいるということであり、この意味での意識がない、ということは、主観客観系での根本的構成要素です。
投稿日時 - 2008-03-07 13:50:42
お礼
上で、赤ちゃんの問題は定義付けの問題、と書いてますが、実際このような、あの世や、意識や、その他、かなり間違った定義が世界に普通にあるので、それをのぞければいい、というそれだけです。
把握もそうです。我思う故に・・といいますが、我は、把握能力が自分に向いたときに発生します。自分を捉えてないときは、他のものを捉えていても、その時は自分はないです。ここでも把握の再定義がいります。自らを把握するときと、自分以外を把握するときでは根本的に別の種類なので(かつ相互乗り入れをしていますが)、何か言葉を作ってくださいーーー誰に言ってるんだろう? とにかく相互乗り入れは、今、考える性質を持たない主観のことを考えてここで話してる、ということにも起こっていますし。
この、4次元時空間の性質に由来する認識能力の限界とそれによる間違いは、何とかただせないかなー赤ちゃんでも分かるんだから、優しく言えないかなーと思っています。
amaguappa様がどこまで、どういう考えを持ってるのか、ちょっと回答文だけでは計りかねるので、内容をすりあわせしようと思ったのですが、できず、つまりamaguappa様の心情を計りかねたので、それはできず、従って自説を書き殴る文になりました。あしからず、です。これができないということは、僕はまだ全然分かってないと言うことですね。
僕の考える方針は、現実に絶対接触してること、論理的飛躍は絶対にせず、どんなに考えが進んでも、論理の鎖を切ることなく、理屈が分かる人には全員説明できるというスタンスです。前に書いたですが、科学のまねをしてます。ぶっ飛んで先に進まず、科学は絶対と相対を繰り返し、論理の鎖で完全につなぐことで、あることを考えてる人が死んでも、論理性だけで次の人が受け継ぎ、その論理性故に発展しました(実験や再検証も論理の一環とすると)。なのでそれはパクリます。主観の考察においても、同じ方法をとるべきです。例えばー天動説はいまでも擬似的に正しいですし、それは地動説や相対論が出ても変わりません。地上にいる人の生活をうまく説明するからです。すごい仮説だと思います。地動説も相対論も永遠に仮説だと思います。近似的には本物ですがー書くスペース全然足りないー``r(^^;)ポリポリ、NO10の方のお礼に続きです。
投稿日時 - 2008-03-07 14:26:03
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ベストアンサー以外の回答(9件中 1~5件目)
先天的な直感に基づくものなので
すか?
だから議論してもしょうがないのですか?
むしろ後天的に刷り込まれたものが
議論をしてもしょうがなくさせているのではないですか?
投稿日時 - 2008-03-05 21:53:24
補足
直観に基づく、ということと、議論してもしょうがないのか、しょうがあるのか、という2つの話の関連が見えません。
個人的には、議論がかみ合わないのは、直観の違い、と並んで、僕は崩れ方の問題、と感じています。
これは一つの見方に過ぎないですが、
言い換えると現実をどれだけ誤解して、その誤解が固定観念になっているか、の問題です。
最大の誤解(=依存)は、人は生まれて死んでいく、という事実から、ほとんどの人が逃避している=現実を見ていない、という、誰でも知ってるような、知らないような、当り前のような、誰も知っていないような、明快な事実があります。
この意味では、世界中のほとんどの人は、現実逃避をしていて、世界中のほとんどの人は、依存症です。なのでもめ事も起きるのは仕方がないと思っています。赤ちゃんの時は、誰もこんな現実逃避はしてないんですが。
上に書いた崩れ方のもんだいーというのは、赤ちゃんの時はたくましく逃げることなど知らない人間が、生長の過程で、どこで現実逃避を身につけるのかなーと普段思っているからです。
投稿日時 - 2008-03-06 14:25:44
お礼
NO9番の人のお礼の続きです。
上に書いた主観の考察でも、現実をうまく説明する仮説を作るべきです。物事をよりよく説明する理論が出るまでは、その仮説を採用しよう、というスタンスです。ーーこれは、哲学では普通ですか?何か哲学は、現実を軽視してるのじゃないかな~?そんなこと無ければすみません。人にもよるでしょうね。
客観の定義において、感じるだけでなく、関係を推慮し、捉えるなら、考えるなら、推慮とは把握そのものと思うんですが??違うでしょうか。あるいは同じ把握能力でも、対象が変わることでそれは客観になったりならなかったりする、という定義ですか?関係を本質と見るか、存在を本質と見るかでは、縁起という言葉の定義にあるのですが、僕も同意見です。上にも書いてますが、把握する把握しないの境目と、関係存在の境目は同じなので、その境目を把握することとは別問題になります。この入り子状の構造ー複雑系ですねーは、そもそも認識能力の不完全さから来るので、ややこしいですね。複雑系においては、論理的還元方法が、通用しないので。論理的に説明できないという事実を論理的に捉える、ということになります。不完全性定理みたいな感じで。
機序とはプロセスのことですか?原因があり、プロセスを経て、現実に具体的に現れる、というのはそう思います。現実に現れるーといってもいろいろで、直観で無意識に思う、心でそう思う、態度で表す、行動する、などいろいろあって、それはそれで一つのフィールドなので、個別に分けるべきと思います。どうせしがない人の把握能力は、ややこしい現実を一度には捉えられません。
>生死を現象の外とみるか内とみるか
まさに視点の問題そのものですね。視点、あるいは把握についての性質を捉えることが最短距離じゃないかなーと感じます。
amaguappa様の言われた、主観客観の定義にたいする返しになってるでしょうか?あまり自信ないのですが。
というか、全部書く長さがない、4000文字は少ない! エネルギーが・・。(^。^;)ホッ!
投稿日時 - 2008-03-07 14:30:46
そう頭というのか感じるものでしょう。これがスピリですね
投稿日時 - 2008-03-02 15:34:24
補足
回答ありがとうございます。
質問です~スピリってなんですか? スピリット?ですか?
こころ?かな~?
投稿日時 - 2008-03-06 14:31:02
お礼
皆様いろいろ意見をいただけ、大変参考になりました。
ありがとうございました。
最後の御礼が、順序が逆になるのですが、すみません。
関係、存在、というのは、実感をうまく説明しようとして思いついた仮説に過ぎないので、気にしないでください。
では失礼いたします。
投稿日時 - 2008-03-10 02:46:39
まあ当たってると思いますよ。
ただ人によってもその真意はまちまちなのでどちらかというと心理学の問題でもあるように感じます。
結局議論しても先天的な絶対的感覚が異論を覆そうとするので反証があればあるほど強くなると思います。
ですが心理学によるとあまりにも強固な説得刺激である場合意見が変容するという実験もあるそうで、そういう意味ではその絶対感覚をうなずかせる理論なり理屈が出てきたときには意見を変えるかもしれませんね。
投稿日時 - 2008-02-28 23:18:27
補足
回答ありがとうございます。
強固な説得刺激ですか~~初めて聞いたです。
心理学者や脳を研究する人も本当によく考えてらっしゃいますね。
さっき見ていた徹子の部屋に出ていた、脳科学者の、茂木さんの話とかぶりました。
ちなみに、養老先生はもともと大嫌いだったのですが、今はとてもいい人で、好きです。茂木先生とタイプ違いますが。
図書館で、心は実験できるか、という本を読んだことがあるんですが、あれすごいですねー、でも世間の人は、ああいう心の事実にはまだ直視できないかもしれへんなー、とか思いました。いや、僕もですが。
投稿日時 - 2008-03-06 14:32:29
お礼
NO6の方のお返事の続きです。
間主観といってる意味が分かりました。
僕が言うところの集団人格のことですね。
ちなみに完全オリジナルな主観などありません。すべては間主観で、人はその間主観の集合体です。
タマネギは、葉っぱの集まりで、ただのはっぱの集合体を人はタマネギ、という別のものと見なします。完全オリジナルな主観は、間主観の集合体の別名です。
人格も同じです。ペルソナ、仮面、役割、任務、親、子供、いろんな言葉で言われる集団人格、その集合体が一人の人格であって、そこにはなにもオリジナルはありません。ただ、自己を認識する、その能力が、ただの集合人格の集合体を、一人の個性ある人格と見なします。特に他人が、自分を見る時認識するときは、絶対に一人の人としてみます。この人は複数のペルソナの集合体だ、などと見る人はいません。個性ですーそれは、それは、個人が自覚する内的感覚の外縁であり、外側ですーつまり人から見ないと自分のことはわからへん、言うことですが。その人の個性ーなるものを自覚してる人はとても少ないと思います。
ただ・・・偉そうなこと書いてますが、意識は一つと見なすことで自己の人格を作り、そしてひとまとまりと見ることで、把握と集中力が働き、その間主観の集合体を変化させていくことができます。
無意識は、大きな倉庫みたいですが、その倉庫に何を入れるか、何を出すかは、意識は自らの、よかれと思う気持ちー直観ーに基づいて、倉庫の中身を変えていくことができます。意識と把握を主体としてその視点から構成する場合、こういう状況になるかな、と思います。
投稿日時 - 2008-03-06 22:51:56
主観と呼んでいるものは時代、地域、年齢などその人が属する社会による合意形成について、各人が受け取る意味の違いであると考えます。また合意形成に引きずられる以上、完璧にオリジナルな主観を持つことは困難なので、間主観という言葉がよりふさわしいと考えます。
Aの発語をBは合意形成に寄り添いながらも自己の解釈において受け取るため完全に同一な意味の交換は行なえないということで、例えばボカシの入った映像を見るようなもので、議論はある意味独り言の交換です。
しかし、発語やしぐさなどの反応が無意味であるとは考えません。人間には社会から認知され他者と繋がりたいという欲求があると考えられ、例えば教えて!gooで質問をして毎回のように回答が付かなければ質問者に何らかのマイナスの情動が起こるものと考えられます。
神がいる、いないにしてもそのような範疇の話題として意味があると考えます。逆には会話とかふれあいも合意形成からそういうものだと教えられそういうものだと思っているという限界があるのではないかと感じます。先天的な直感ではなく後天的な直感ではと。
投稿日時 - 2008-02-28 11:00:32
補足
回答ありがとうございます。
返事送れてますすみません。時間がなかった上に、パソコンの調子が悪くて、なかなか書き込みできないでいます。長い文章の方は、ゆっくり考えてから補足お礼を書きたいと思ってますので、ちょっと後回しになってます。すみません。
先天的か後天的かーこれはいつも考えてます。特に遺伝的なものなのかなんなのか、というのは興味があります。あと、先天か後天か、というのも、主観になるので、決定は難しいですが、僕の実感では、どう見ても先天的なものだったよなー、と思います。うちは別に宗教もなにも関係ない家で、そういう空気もなかったですが、僕は小さいときから自然に、追い詰められたときは神に祈ってたし、それが苦しいときだけじゃなく、普通何気ないときもそのフィーリングがいつも気持ちの中にあることに気づいたのも、誰にも言われない小さいときだったので。今現在は宗教に興味はありますが、人の固定観念の固まりである宗教に、どうやって切り込もうかと気長に思案中です。
議論はある意味独り言の交換~~他人=自分、ということですね。この解釈はずいぶん前から聞いて、正しいなと思ってたのですが、長い間ぴったり来るとらえ方ができなかった=生活の中での生きる実感として、この等式を当てはめ切れてなかったです。それが分かってからは、あーなるほど、確かにそうだ、と分かりました。ちょっと書きますと、この等式は正しいのですが、人の集中力なり、把握と認識というのは、この等式のどちらか一方しか、直感的に把握できない、という能力の限界を持っています。だからこそ、回答者様も、ある意味では、という言葉で視点の移動を行っています。僕もですが。
僕の場合、この等式は、いつもいつも、他人というのは自分のことなんだ(心理学的な投影)、もしくは、自分というのは人への思いの集まりなんだ、とか、この2つしか感じることができません。なので、この2つを同時に思う~つまり、他人と自分は同じなんだイコールなんだ、と直観で感じることはできません。あとで記憶を会わせて、そこから推測してそう思うだけです。だからこれを生活実感に導入するのは優しくないです。そもそも実感がないので。でも慣れてくると瞬間的な解釈というか、そんなものができてきて、直観ではないけど、そのすぐあとに、ああこれは等式が見えてる、と思えるようになりました。いつもいつもです。~ずーっとこんなことやってるとしんどいですが。
オリジナルの主観と、間主観~~間主観をもう少し詳しくかいていただければ・・・。意味が今ひとつ分からないので。主観に関しては、ただどう感じる、という問題ですし。
関係直観というのは、そのどう感じるかというその感じそのものが現実でありリアルであり、自分そのものである、と思う人のことなので、そういう人にとっては、存在直観の人の思うところの「わたし」なるものは、もちろん普段感じていますが、一番本質的には、わたしではなく、心が現実だと思ってるので、わたしというものはただの工作物であり、つまりそういうわたしなるものに、存在の本質を感じない人のことを言います。目に見えないー心の方により強くリアルを感じる人ですから。
目に見えない心に、よりリアルを感じる、ということは、「無私」という言葉が生まれる土台なんです。私はない、と書いて無私、ということ場は、妙に思われるかもしれませんが、生きる実感として本当にそう感じるので生まれる言葉です。これの逆の言葉は、無神です。「私はいない」というのと、「神はいない」というのは実に対称的です。唯物と唯心も、主観と客観もそうです。おもしろい構図です。~~と趣味に走っていますが。関係直観にとっては、確かに自分はいるのだが、それはリアルという点で、2次的です。存在直観の人は逆ではありませんか?神と言っても、よくわからない、あるいは、結果論というか、最初からそんなものを考えるなんて、という声が聞こえるような気がするのですが。 誤解を承知でいうなら、神とは、「心にリアルを感じる」という直観そのものですから。
ここでこうやって言葉を使って説明してる地点で、僕も存在直観のシュミレートを使ってそちらの立ち位置にいるのですが。
これで全部でしょうか?何か飛ばしてるかも?
>神がいる、いないにしてもそのような範疇の話題として意味がある
これが一番難しそうですね。
というかおっしゃる意味をもうちょっと詳しく聞かないと、見えないなーと感じます。適当な解釈で生返事も嫌だなーと思うので。
投稿日時 - 2008-03-06 15:03:57
お礼
ただ、会話やふれあいを、学習の視点から見るー教えられそういうものだと思っているーというのは、実に存在直観的=心理学的だなーと思います。
ちなみに、僕は今の心理学は、「西洋心理学」と一人で言ってます。これは、西洋医学と東洋医学の対比で言ってるのですが。
いつも「東洋心理学」なるものができないかなーと思ってます。つまり、心が健康な人が健康でいる理由を追及し、そこから得られた理論で、心が健康からちょっと離れたときに、漢方薬で初期の風邪を治すように、大事に至る前に、ちょちょっと、心の崩れを治してバランスよく戻す、ということが、普通にできる時代が来ないかなーとか思ってます。
言いたい放題書き殴って回答者様の気持ちを今ひとつくんでない文になってますが、別にかまいませんよね? これでいっぱいいっぱいかも。
投稿日時 - 2008-03-06 15:13:58
生物学のほうで利己的遺伝子と利他的遺伝子という考え方があるようです。利己的遺伝子は自分として存在できるが利他的遺伝子はほかの利己的遺伝子の命令を聞いてはたらかないと存在できないので、いわば部品としてしか存在できない。したがって利他的遺伝子は自分としての存在は不可能であるというようなことだろうと思います。神がいるというのは自分は利他的遺伝子のように神(利己的遺伝子)の部品として存在する(自分としては存在しない)が、神はいないという場合には自分が利己的遺伝子のように自分として存在するということに対応するように思いました。
投稿日時 - 2008-02-28 07:56:35
補足
回答ありがとうございます。
おもしろいですねー。こういう見方おもしろいので好きです。
利他、利己で分けるのは、客観視からの視点ですね、とまず前提を言っておいて。
むつかしいですねー。そんな遺伝子があるって初めて聞きました。
神のいるいないに利他利己を結びつけるのは、下の方に書いているだまし絵の話と重なるものがあるなーとは思ったんですが。あとで勉強します。
だまし絵の話と関連して、同じものが、視点の置き方で2つに見えるというのは日常よくあることで、人の心の中の善と悪や、ポジティブとネガティブも同じです。両面は現実に、意識の置き方で確かにメンタル的には実在しますし、それを選ぶ自由が人間にあるのも確かです。この2面を実在としてその幾何学的構造を考えると、韓国の国旗に使われている太陰大極図になります。この世界の真の構造と、それを捉える意識と把握の限定的な能力が、その真の構造を、どういう角度で断面を切り取って人の気持ちに見えて来るのか、という事柄を図で示したものです。
利己利他遺伝子が、そういう意識のありように関連しているのかわからないですが。
ついでに思いついたので書いていいでしょうか?
人間は、無限を直観することができません。いつもいつも把握と認識で対象を限定し、有限にすることで、初めてその相手を捉え考えることができますから。1/3を小数点に直そうとしても、直感的に感じられないです、僕は。理屈では分かっても。イメージできないものは考えられない、という性質が一義的にはあります。無限や、意識の次元ー哲学でいう止揚とかです、あと複雑系もそうです。イメージできません。
もし心の性質にメカニズムに、このような認識の限界を出てしまう性質が仮にあっても、人は捉えられません、捉えられないものは考えのまな板の上に乗りません。仮定ですが。
投稿日時 - 2008-03-06 15:45:33
お礼
NO4の方へ補足ですー文の順序がばらばらで申し訳ないです。
>眠りからいかに脱却するか
は、第一段階として、人類が皆死から逃避しているという現実を知らせることだと思います。(書くのは簡単!)
人は、皆、死なない、という幻をもって現実逃避してますし、物質世界への依存症もありますし、現実から逃げてるという意味では引きこもりです。そんな人たちが、いろいろ触れあい作業を行えば、これだけの病気にかかっていると、性格も自己中ですし、何かと問題が起こります。
なので、あなた病気ですよ、と教えれば、東洋医学的原理が働き、この病気は治ります。
東洋医学の原理である、人は自分の心身のゆがみを自分で起こしているのだから、自分がそれを起こしていることを「自覚」すれば、自分で不快なことを発生するような作業は即時に自分の意志で止める、という簡単な事実があります。つぼも、漢方も、整体も、皆この理屈ですが。
言い換えると、人は病気や辛いことにおいて、ある種の手抜きをしているのでーそれを自覚してもらえば、しんどくても、不快は止めようと思う、ということです。気づきが、大事なことは、カウンセリングでも同じですが。東洋医学でも同じです。
切り込み方としては、抽象的な方法と、具体的方法があると思います。これはー各自の性格によるので。真理の形は同じでも、人それぞれ、その真理の全体像の中の、どこが知らなくて問題が起きているのか、というポイントは、人それぞればらばらです。なので処方箋的なものも、当然人それぞれ最適なものは全部違いますー具体的な事例を挙げて相手に知らせる場合は、具体的に相手に言うときは、本当にその人にあったただ一つの最適な言動があります。
たとえとしては数学の学習があります。数学の体系はただ一つだけですし、本に書いてあることの内容は皆同じです。でも、数学ができない人が、数学を分かるようになる最適のアドバイスは人によってばらばらです。なぜなら、人によって、どこが分からなくて数学嫌いになってるのか、人によってばらばらだからです。人生嫌いも同じです。
とは言っても心も数学も、つまずきやすいところはある程度パターンが決まっており、各自の直観の組み合わせを考えれば、無限に多くのパターンがあるわけではないと考えます。
哲学の人とか、抽象的に論理的に考える人だと、抽象的モデル一つを持ってくればいい、と思います。
投稿日時 - 2008-03-07 11:48:11