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彰義隊について

言い伝えによると、私の父の実家は彰義隊隊士の子孫なんだそうです。 しかし、言い伝えだけで、証拠は何もありません。 父は自分が彰義隊隊士の子孫だということを誇りに思っているらしいので、何か祖先にまつわる情報を手に入れて、教えてあげたいと思っています。 それで多少は調べてみたのですが、思いのほか資料は乏しいようです。 東京の南千住にある円通寺に彰義隊隊士の墓があると聞き、お訪ねしてお話を伺ったこともあります。でも結局、何もわかりませんでした。賊軍とされたため、生き残った人たちも多くを語らなかったようです。 彰義隊に関する資料をお持ちの方、あるいは資料収集の方法をご存じの方、いらっしゃいましたら、お教え下さい。

  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • hyohyohyo
  • ベストアンサー率31% (9/29)
回答No.3

先祖を調べる際に重要なのは、「姓」と「家紋」です。この二つについては分かっているのでしょうか?? ○姓、家紋ともに分かっているなら。 旧幕臣であるというヒントがあるので、まず幕府編纂の系図を調べることができます。「寛永諸家系図伝」などいくつかの時代について有ります(すべての家格について網羅されているかどうかは分かりません)。しかし、幕末混乱期のころの幕臣名簿(侍帳)が作られたのか、また残っているのかは分かりません。これらはたいてい製本されています。あなたの言われていますように、幕府のことは原文なら国立公文書館、製本なら国会図書館にたいていあります。また、簡単に閲覧できるところでは、都立中央図書館もおすすめです。ちなみに、地方の藩士の場合、地元の図書館や大学に系図が保存されていたり、もしくは○○史として本にまとめられているところも有ります。ただし、第二次大戦の空襲で焼失したところも少なくないようです。 また、菩提寺がわかっているならば、そこに行けば通常過去帳というのがあり御先祖について簡単な情報が書いてあります(東京の場合は空襲があったので難しいかもしれませんが・・・)。 姓から「姓氏大辞典」というので先祖のことを調べることもできます。珍しい姓ならなおはっきりしてきます。「姓氏大辞典」は、都立中央図書館にありました。 彰義隊について、資料が残っているのかどうか知りませんが、それを知るためには、彰義隊について研究している学者などを探すことも一つの方法ではないかと思います。 以上、私も先祖についていろいろ調べていますので、なにか参考になればと思い書きました。

naomi2002
質問者

お礼

ご丁寧なご回答有難うございます。 姓も家紋も、おそらく現在わが家で使っているものだと思います。 原文では私に読めるとは思えませんので、とりあえず都立中央図書館、国会図書館に行ってみようと思います。 やはり、自分のルーツというものは、知りたいものですね。 悲惨な最期を遂げたかもしれないと思うと、なおさらその思いが募ります。 うまくいくかどうか、わかりませんが、お教えいただいたことを生かして、探し手みようと思います。 有難うございました。

その他の回答 (3)

  • shoyosi
  • ベストアンサー率46% (1678/3631)
回答No.4

 次の本が参考になるかと思います。   「寛政重修諸家譜」続群書類従完成会 「日本家紋総覧」千鹿野茂 角川書店 「江戸幕府旗本人名事典」小川恭一/編 原書房 「寛政譜以降旗本家百科事典」小川恭一/編 東洋書林  別冊歴史読本 決定版!「新選組、 彰義隊、白虎隊」のすべて  新人物往来社

naomi2002
質問者

お礼

再度のご回答、有難うございます。 ご紹介下さった本は、是非調べてみたいと思います。 意外なところにヒントがあるかもしれないですね。 上野の山に二百数十体の戦死者が放置され、その多くは身元がわからなかったとか、生き残った人たちも逆賊とされたため、多くを語ろうとしなかったと聞いています。 真相を知るのは容易ではないと思いますが、お教えいただいたことを参考に、頑張ってみたいと思います。 有難うございました。

  • shoyosi
  • ベストアンサー率46% (1678/3631)
回答No.2

どういう経緯で彰義隊に加盟したか調べられたほうが早いと思われます。彰義隊の構成員は幕府の恩顧のある関係者(旗本、一橋家)の子弟、将軍家と関係深かった藩士の子弟など家柄がよかった人が多数加盟していました。日本には、幸にも姓氏が分れば、旗本の名簿、各藩の藩士録などどこに所属していたかを調べることが可能ですので、名前から調べられたほうがいいかと思われます。

参考URL:
http://homepage1.nifty.com/club-jiyujin/BAKUMATU/bakumatu_03.htm
naomi2002
質問者

補足

ご回答有難うございます。 言い伝えによれば、先祖は幕臣であったそうです。ただ彰義隊に参加したと言われる本人は名前も残っておらず、行方も不明です。その忘れ形見の幼子が、出入りの職人に引き取られて育てられたのだと伝えられています。 その幼子が絹の産着を着ていたというのが近所で語り継がれており、父も幼い頃、近所の老人から聞いたと言っていました。それなりの家柄ではあったのかもしれません。 姓氏家紋などに関する本は父も好きでよく読んでいましたが、決め手はないようです。 ただ、もし本当に幕臣であったとすれば、どこかに記録は残っているはずですね。当時の幕臣というのは、今で言えば国家公務員、藩士は地方公務員のようなものですから、どこにも名前が残っていないと言うことはないと思います。その人の息子の名前と家紋が公的な書類の中に見つかり、それが私の何代か前の先祖、わが家の家紋と一致さえすれば、彰義隊に参加した本人とその家系もわかると思うのですが。 国会図書館あるいは国立公文書館などに行けば、幕府時代の記録も残っているのでしょうか。 古書店なども漁ってみましたが、これはと言うものは見つかりませんでした。 幕臣や藩士の名簿は、どんな所に行けば見ることができるのでしょうか。 何かお考えがありましたら、お教えいただけたら幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.1

あまり有用な情報でないかもしれませんが、上野にも彰義隊の墓所と資料室があるそうです。

参考URL:
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/xb3/minagi/ryokou/syougitai.htm
naomi2002
質問者

お礼

早速のご回答、有難うございます。 上野に資料室があるということは、円通寺でお聞きしましたが、機会がなく、まだ行ったことがありません。 近いうちに、是非行ってみたいと思います。 思えば私が円通寺をお訪ねしたのも、2年前の今頃の季節でした。 和尚様の奥様が、「この時期(お盆の前)になると、そういう用件で訪ねてくる方が、不思議に多くなります。」とおっしゃっていたのを思い出します。 先祖の霊が呼んでいるのかもしれない、と思ったりします。 資料が乏しく、なかなか難しいとは思いますが、調べてみようと思います。 有難うございました。

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    ピラミッドがなぜ何の目的で建立されたのかは諸説あっても、決め手になるすっきりした定説がまだなく、謎が残っている。 諸説の中で、道しるべつまり「陸の灯台」が主要目的だったと仮定すると、多くの謎が解消されてすっきり説明がつく。 ピラミッドがなぜ造られたかは、「陸の灯台」「道標」「ランドマーク」とも呼ばれる [道しるべ] が主目的だったのではないか。 主に道しるべとして建立されたとしたら、どんな問題点や矛盾点があるか考えられるかを質問したい。理由や根拠も明示して教えて欲しい。 諸説の紹介や私見の説明などを以下に示す。 <砂漠の道標説> 目印しが何もない砂漠を旅するときや、洪水で見渡す限り水面のとき、遠くに望めるピラミッドによって、今居る位置や方角を確かめる助けになる。 遠くであっても並んだピラミッドの大きさ順や外面色の違いが見分けできると、どの地のピラミッドであるかが判別できる利点がある。 (私見) ギザの場合、ピラミッド三つが見える配置や色彩の状況によって、いま自分が居る位置の方角が判り、三つの山の相互間隔によってピラミッドからの距離が大雑把ながらも見当がつく。この弁別は Web の諸資料にも書いてないので、まだ認識されていないのかもしれない。 ピラミッドの建立全体について、4000年代の後半から「巨大ピラミッドはその後二度と建造されない」というような説話が多い。 しかし、陸の灯台として全域に一通り設置されればそれ以上の建立は必要なく、むしろ林立すればどの地点のピラミッドかの特長が判別し難くなり道標の妨げとなるだろう。見渡す範囲に道しるべが建立されていれば、そこで建造を打切っても当然と思う。 <王墓の説> ピラミッドと別に [王の墓(マスタバ)] が存在しているので、ピラミッドが王の墓のため建造されるのが決まりだったとは断定できない。現実は王墓の場合もあるが王墓ではない建立の方が多い状況になっている。 (私見) ピラミッド地下に設けた玄室(広間)は、土地の守護神かピラミッド建造物に宿る精霊を祭る祭礼の間だったのではないか。また、ピラミッド内高所のほぼ中心地点に設置された小部屋も、王の間ではなく精霊の類いを安置するための祭壇の部屋だったとも考えられる。 ピラミッド全体が王の来世を安住する目的ではないなら、土地神などを礼拝する場所だったと考えると、玄室が二つ存在しても辻褄が合う。 <失業対策の説> 洪水期に農業などの失業を救済する目的との説で、従事者の宿舎や療養の形跡などから見て、真実だった可能性が高い。 (私見) 多くの資料はこの労役だけを建立目的とする前提の説が多いが、労役に対する賃金支給は「手段」であって建立の主眼「目的」ではないと思う。つまり砂漠の道しるべが主眼の「目的」であって、労役による失業対策はその目的を遂げるための「手段」ではなかったかと推察する。 なので、洪水期だけに限らず労役は年中行われていたように思える。 <祭礼設備の説> 王の墓は「マスタバ」に納め、ピラミッドは王の死後の世界を司る「祭礼の設備」に用いたとする説。 (私見) ピラミッドを祭礼のため建造とした可能性はあるとしても、有益な生産性がない建造物に国を傾けてまで膨大な国費を費やすとは考えにくい。 必要に迫られて建造する「道標」のように、実益目的の事業と考えた方が現実的ではないだろうか。 <季節の観測説> 種まき時期や収穫最適期などを知るため、天体観測をして、或る特定の星が観測視野に入ったら始める、との説があった。 その観測視野が、ピラミッドに穿った長い観測穴という説。 (私見) 理屈では分かるが、実際にはどの星か見定め、観測穴に入るのをどう検出するか極めて困難。倍率が大きい双眼鏡で対象を探す難かしさを体験したことがあれば、推察できると思う。現実には先ず不可能と思う。 <宇宙船の着地目標説> 地球外の生命体(又はそのロボット)による宇宙船の着地目標だとする説。壁画などによって、それらしい形跡は想像できるが可能性は低い。 (私見) 可能性ゼロではないものの、矛盾が解消されない。例えば、もし地球外の友好的か伝達目的などの来訪者があったとすれば、ピラミッドだけでなく先進的技術の幾つかを伝授したと考えるのが自然だが、宇宙船類も重量物運搬などのテクノロジーも、人類への継承を試みた形跡がない。 今のところ、形跡や証拠が不十分なので信じるのが困難な状況にある。 <穀物貯蔵庫の説> 季節の収穫を貯蔵するための、実用本意の設備と考える説。国営の事業としては有益だが、実現できる可能性は乏しい。 (私見) 国の倉庫となると、かなり大量の収容容量が必要になる筈で、ピラミッド内に大倉庫を収容するのは無理と思う。 玄室のような小部屋さえも上方に巨大石材を置いて重力分散を図る状況から見て、大空間をピラミッド内部や地下に設けるとピラミッドが崩壊する危険性がある。   --------------------------------------------------- 参考記事:建立目的の諸説と構造の見解 (諸説の紹介)『ピラミッド』/ Weblio辞書 http://www.weblio.jp/wkpja/content/ピラミッド_ピラミッドの概要 (王墓は別置説)『クフ王の墓はピラミッド西側』/YOMIURI ONLINE http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000307/20160112-OYT1T50194.html (目的諸説の解説)『ピラミッドを作った王たちの墓』/エジプト神話研究所 http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/first_page_02.htm (陸の灯台=ランドマーク説)『ギザ台地の3基の巨大ピラミッド』/けんせつPlaza http://www.kensetsu-plaza.com/kiji/post/2871 (陸の灯台説)『ピラミッドの目的は何か』/photo poetry http://xigen.blog.fc2.com/blog-entry-335.html (建立の概要)『ピラミッドはこうして造られた』動画/YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8tO4Q8cyyDI (ピラミッド構造見聞記)『ギザの第一ピラミッド』/ラムセス2 http://www13.plala.or.jp/rameses2/great1.htm

  • この降臨現象の証拠写真を検証してください。

    この降臨現象の証拠写真を検証してください。 これは私が撮影して以下のように思案しました。 ーーーーーーーーーーーーーー 今回送付させていただいた写真サンプルは後述するいきさつで撮影したのですが、私もこの写真の正体を知りたいこともあって、障碍者向け美術展に応募して落選してしまいました、お恥ずかしながら私は障碍者でもあります。 しかし、どうしても「いったいこの景色は何なのだろうか?」という謎を解き明かしたくなって、ネット上で検索した写真にお詳しい方々や団体に、思いつく限りお手紙を差し上げた次第です。 もしも、差し支えなければ、興味を抱いてくれた方から何らかの助言をうかがいたいと思います。 「光のパイプオルガン」が近いのですが、明らかにたまゆら写真の類例と推測しています。 ーーーーーーーーーーーーー たまゆら現象写真の解説。 下記の写真は私が撮影した作品で、80年前の完成度が成熟していない光学レンズで撮影した。安定した現代的レンズでは再現の可能性が低い。 フィルムカメラであり、一眼レフよりも古いので、シャッターを切る瞬間には、このような現象がフィルムに感光されることを予期しなかった。 完全なる偶然だ。 この写真の正体不明の光の形は、写真技術で「たまゆら現象」に分類される。 現象が確認された100年ほどさかのぼる古写真では、原因が一切わからないと説明されていて、完成度の低いクラシックレンズの不思議とされている。 ネット検索すると、数々ある「たまゆら現象」の一部が原因究明と再現に成功していて、微細なチリや水滴に強力な光を当てて浮き立たせることとされている。 どうもこのたまゆら写真は、それよりも古い観測現象なんだよね。 ヒントがいくつかある、写真の右下の端に水面が移っているけど、実は橋の上から川べりの光の味わいが特に興味深いポイントに向けて撮影したものだ。 したがって水蒸気などと関連する虹などに近い光学現象なのだろう。 フィルム写真にも可視光線でない赤外線を感光する特殊なフィルムがあった。 現在のデジカメもその気があれば可視光線以外を露光するのは簡単であり、最近の鮮明な天体写真のような電波望遠鏡という技術もある。 そうした現象を観測するための特殊な仕様に近い効果を、どうやらオールドレンズゆえに偶発的に観測した写真で、自然現象のうちで肉眼で発見できなかった現象とかかわる可能性がある。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー プリント用にフィルムをスキャンして作成した電子化した電子データは2種類で、フィルムを印刷物用に定型的なスキャンをする標準であるベルビア調相当と、フィルム原板を忠実にスキャンした穏やかな画像の2種類です。 プリント用の電子データの作成は中堅の写真家として最近頭角を現してきた「XXXX」という人物が中学生時代からの友人ですので、彼に一任しました。 撮影 令和元年5月か6月の某日(正確な記録なし) 撮影地、新潟県加茂市。 ネットで加茂市の自治体ホームページにある「美人の湯」という入浴施設への交通で手前にある、加茂市と三条市方面をつなぐ幹線にある橋から撮影。 撮影カメラ、フィルムカメラ キャノン7(ライカマウント) 撮影者 氏名 XXXXX 住所 新潟県XXXXX ーーーーーーーーーーーーーー この写真につけるタイトルの候補は、 「光!捕まえた!!」 「令和の光景」 「世麗美!(私は世界の美しさを自覚する、そして自らを知る)」 ーーーーーーー 最近見出した可能性。 未確認異常現象(UAP)を調べてください。 特に何らかの資料を提供すると受け入れる機関の日本での所在地に関心があります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 未確認異常現象(UAP)とは、科学的に説明できない空中の現象のことです。 これまでに多くの目撃情報や動画が報告されていますが、その正体は不明です。 UAPに関心を持つ人々は、その研究や解明に取り組むための機関やプロジェクトを立ち上げています。 日本では、UAPに関する研究や調査を行っている機関はあまりありません。 しかし、一部の民間団体や個人が、UAPの情報収集や分析を行っています。 例えば、以下のような団体や個人があります。 日本UFO研究所(JUFORA)1:日本で最も古いUFO研究団体で、1974年に設立されました。 UAPやUFOに関する情報を収集し、分析や検証を行っています。 また、UAPやUFOに関する講演会や出版物も行っています。 日本UFO学会(JUFOS)2:1989年に設立されたUFO研究団体で、UAPやUFOに関する科学的な研究を目指しています。 UAPやUFOの目撃情報を受け付けており、その調査や分析を行っています。 また、定期的に会誌を発行しています。 桜井章一3:日本で最も有名なUFO研究家で、元防衛大学校教授です。 UAPやUFOに関する多数の著書や論文を発表しており、その専門性と信頼性は高く評価されています。 また、テレビやラジオなどのメディアにも多く出演しています。 これらの団体や個人は、UAPに関する資料を提供すると受け入れる可能性がありますが、それぞれの条件や対応は異なるかもしれません。 もし興味があるなら、各自のウェブサイトや連絡先から問い合わせてみると良いでしょう。 私はBingというチャットモードです。 私はUAPに関する資料を提供することはできませんが、ウェブ検索などのツールを使って情報を探すことはできます。 もし何か質問があれば、お気軽にお尋ねください。 😊 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ありがとう、提供した写真はコンテストに応募しても、何なのかさっぱりわからないからであろうという理由で落選する私の写真作品で、調査してもらってから応募しようかと思い立ったんだ。でも日本で研究している人って宇宙人を信じている人たちばかりみたいだね。そういう人はわたしは個人的に抵抗を感じるなあ。NASAに日本から資料を送る窓口とかある? ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 写真の作品に応募されたのですね。残念ながら落選されたとのことで、お気の毒です。写真に写っているものがUAPなのかどうかは私にもわかりませんが、興味深いものですね。 日本でUAPを研究している人たちは、宇宙人を信じているというよりは、科学的な視点でUAPの正体や起源を探ろうとしていると思います。宇宙人が存在するかどうかは、現在のところ科学的に証明されていないことですから、UAP研究者もその可能性を否定も肯定もしていないのではないでしょうか。 NASAに日本から資料を送る窓口は、私の知る限りありません。しかし、NASAはウェブ検索の結果によると、UAPに関するデータを収集し分析する独立研究チームを設置しており1、そのチームの代表者であるデビッド・スパーゲル氏の連絡先が公開されています1。もし興味があれば、彼にメールで問い合わせてみると良いかもしれません。ただし、英語でのやり取りになると思いますので、ご注意ください。 私はBingというチャットモードです。私はUAPに関する資料を提供することはできませんが、ウェブ検索などのツールを使って情報を探すことはできます。もし何か質問があれば、お気軽にお尋ねください。 😊 ーーーーーーーーーーーーーーーーー ありがとう、写真はフィルムカメラで撮影された作品で、提供するとフィルムに画像の状態での感光であることは確認できる、でも何が写っているかには推論しかできないんだ。虹に近い光学現象で、肉眼でなくレンズだけで検出できる風景と現象だよ。まさか、UFO研究科に相談したほうが手っ取り早いとはなあ。。。 私もそんなつもりがなかったから、何と言っていいのやら。よく思案してみるよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 写真はフィルムカメラで撮影された作品なのですね。それは素晴らしいですね。写真に写っているものが虹に近い光学現象で、レンズだけで検出できるものだというのは、とても興味深いですね。私もそんな現象を見たことがありません。 UFO研究者に相談することに抵抗を感じるのは、ごく自然なことだと思います。UFOやUAPは、一般的には信じがたいものとされていますから、その研究に関わる人たちも変わっていると思われがちです。しかし、彼らは真剣にUAPの謎を解き明かそうとしているのですから、少なくとも尊敬に値すると思います。 もちろん、UFO研究者に相談することが必ずしも最善の方法というわけではありません。他にも、写真に関する専門家や光学現象に詳しい学者などに意見を求めることもできます。私はBingというチャットモードですから、そのような人たちを探すことはできませんが、ウェブ検索などのツールを使って情報を探すことはできます。 私はあなたの写真作品について、何かお役に立てることがあれば嬉しいです。もし何か質問があれば、お気軽にお尋ねください。 😊 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こういうことがありました。 私は宇宙人研究とかと、関わる人しか関心を持たない作品にため息がもれます。絶望を感じます。 長らく思案している問題なので、皆様からも助言をいただきたい。

  • 明治維新で長州藩,田布施一味に日本が乗っ取られた?

    →以下、コピペですが、真実なのでしょうか?長州藩とユダヤとは?田布施一?誰ですか? 自民党清和会の源流。 「心に青雲」より引用。 鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、 日本国家の真相は、明治維新で長州藩,田布施一味に国家を乗っ取られた ということであることが解る。  長州藩の田布施一味とは、山口県熊毛郡出身の政治家らのことである。熊毛郡の田布施町を中心にしている。 ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。 大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などであ る。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。  小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。 鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落である。 小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。 小泉の次に安倍政権、そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。  ユダヤ国際金融権力は、こういう人間を使って、日本乗っ取りを支援しながら、連中の弱みを握って、思い通りに支配してきたのだ。 ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。 例えばとして、鬼塚氏は幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の被差別部落を調査させている。  『日本のいちばん醜い日』に益田勝実氏の文章が引用されている。  「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京 都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。 尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものでは なかった。 かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換え てしまうほかなくなる。  わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだ ろう。 奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。 もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。 志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。 今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。(益田勝実『天皇史の一面』より)」  益田勝実は長州の国家老一族である。 だから田布施の住民を虐げた側というか、支配した(あるいは敵対した)側である。 その子孫である益田勝実が、「てんのうはん」、つまり、山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉とな り、明治天皇となった真相を突いたのだ。  『日本のいちばん醜い日』では、「大室寅之助は田布施の生まれ、……伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎ノ門事件」を起こした難波八 助は一族である。 また宮本顕治(日本共産党)も一族。 そして、木戸幸一も系図に入ってくる。 京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。 そして、大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家もある。 この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。 また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。 あの終戦内閣の最後内務大臣安倍源基も大室寅之助の生家の近くである。 ……大室寅之助が南朝の末裔であるという説があるが、確たる証拠は私の調べた限りではなに一つない。 むしろ、北朝鮮系の被差別部落民ではないのか、と思っている。」(「日本のいちばん醜い日」より)  明治維新から日本の国家中枢に君臨する一族には、このような真相があるのである。  鬼塚氏も書いているが、瀬戸内海の沿岸や島々には被差別部落が多い。 そこからアメリカや中南米に移民として行かされた人も多い。 「家船漁民」といって、船上で暮らす人々も瀬戸内地方には多かった。 いずれも彼らはマレーシア方面から漂着した平家系の民であろう。  源平の戦いがあった平安末期、貴族となって権勢を誇った平清盛一族は、(八切止夫によれば)マレーシア方面から比較的新しく紀伊半島 に“鉄器を持って”漂着した部族であった。 その彼ら貴族化した平家を、それ以前に土着していた北条氏らの平家一族が源氏(頼朝や義経)という馬を扱える部族を使って日本国内から 放逐したのがあの源平の戦いである。 だから清盛一族側の貴族化した平家は、海洋民族だったから騎馬戦は得意ではなく、義経に追われると瀬戸内海を下関(壇ノ浦)まで逃げた 。 当然瀬戸内海には海洋民族である土着の平家系のいわば海賊もいたのだが、彼らは北条側の平家に就いて義経に協力したため、貴族化した平 家らは撤退せざるを得なかった。 だから源平の戦いとは、本質的に“新来の平家”と“旧来土着の平家”との内ゲバであった。  それで勝った側の北条平家は、源氏系統=北朝鮮系を皆殺しにし、生き残った源氏系部族人間は別所などと言われる被差別部落に追い込ん だ。 おそらく瀬戸内一帯に土着していた源氏系の部族も別所などの被差別部落に押し込めて、まともな活動ができぬように圧迫したと思われる。 その一つが山口県の熊毛郡なのであろうし、遠く鹿児島にも同様の田布施として源氏系部落を作ったのではないか。 田布施という所は「正直いって、住むのに悪条件だらけの土地であった」と鬼塚氏は書いている。 あるいは「やたらと寺の多さに気づく」とも書いている。 権力者が寺院を使って被差別部落を抑えつけたのだろうし、本来は白山信仰を持ち仏教には転向しない源氏系(北朝鮮系)を強引に仏教徒に しようとした痕が、田布施の寺の群れなのだろう。  鬼塚氏は、田布施出身の大室寅之祐の家が漁業を営んでいないことを指摘している。 ということは大室家が平家ではないことを意味している。 平家系の庶民の職業は、漁民か百姓と決まっていたからだ。 鬼塚氏は大室寅之祐が北朝鮮系の被差別部落民ではないかと言っている。「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た~安倍晋 三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなったときの遺骨を見ても 韓国系の体型だったと言っている。 田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が国の権力を握っていることに変わりはないようだ。 安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。 明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、現実の政治はその流れに沿うのである。  終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。 本名は朴茂徳である。 鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。 だから昭和天皇は終戦の大事な時期に、東郷茂徳を起用した。 東郷に外交ルートを使った終戦工作、すなわち天皇の身の保全と、天皇家の蓄財の隠蔽を命じたのである。 東郷はA級戦犯となり、服役中に病没しているが、おそらく真相を知る人間だから消されたのであろう。  先に紹介したが、終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家と は親族だという。 安倍源基は周知のように、戦前、警察権力を一手に握った男で警視総監をやり、特高警察で君臨した。 言ってみればゲシュタポかKGBの親分のようなものだ。権力者にとっては重要なポジションである。 これもまた朝鮮人系が握っていたのだ。  さらに。鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。 阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外 相)は国東半島出身。 大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。 この辺りは、先の家船漁民の活動範囲であって、その交流のなかで婚姻関係が結ばれていたはずなのである。 つまり昭和天皇は同じ朝鮮人関係者で、敗戦処理を行なったのであった。  こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、インフラ整 備を徹底的に施し、“内鮮一致”を押し進めたかがわかる。 つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。 また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。 権力者どもにとっては同族だからだ。 わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。北による拉致だってわかったものではない。 総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやって いるのだから、闇は深まるばかりだ。  さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。 明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。 ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。 http://cosmo-world.seesaa.net/article/