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応仁の乱について
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時期によって違っていたということになります。 基本は細川VS山名 そして、軍の正当性を主張するために、正統の根源である将軍あるいは将軍候補が、その言いなりに左右したということになります。 当初 日野富子が息子義尚の後見を山名宗全に頼み、細川勝元は、義政と(義政が将軍位を約束した)義視が身柄確保。 途中で、義視が義政と対立して山名の元へ。 ※ 義政から義尚への将軍位の継承がないので、いっそ義視を将軍に正当性を主張。ということ。 参考書的に詳しく書けば、ぐちゃぐちゃになります。 それは、実は義尚<>義視の次期将軍位継承が応仁の乱の主な原因ではなく、一つの原因でしかなったことに起因します。
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