• ベストアンサー

望月千代女は忍者?

武田信玄が敵国の情報収集部隊として作った「歩き巫女」集団なのですが、疑問があります。 歩き巫女集団の部隊長で、彼女達に忍術などを教えていた望月千代女は忍者ですか?それとも巫女ですか? 女忍は存在しなかったという説があるで、巫女さんなのかなぁ・・・

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

はっきりとはしませんが、どうも忍者だったようです。素人に忍術を教えたのですからね~。 【信玄がくノ一の養成を命じたのは信州北佐久郡望月城主の若き未亡人・望月千代女であった。実は千代は甲賀流忍術の流れを汲む名家、望月家の血族であり、信玄の甥が入り婿になっていた。】との説明がありますが、詳しくは下記URLをご参照下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%83%8E%E4%B8%80

KOKOMINA
質問者

お礼

ありがとうございました。

その他の回答 (1)

noname#36463
noname#36463
回答No.1

忍者を使うことは、好んだ人とそうでない人がいましたが、信玄が組織した忍者ということで、いいのではないでしょうか。 巫女姿は、歩き回っても怪しまれない姿で、仮の姿だと思います。

参考URL:
http://hagakurecafe.gozaru.jp/ninja8takeda.html
KOKOMINA
質問者

お礼

ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 滋賀県東部の「甲」がつく地名のなぞ

    滋賀県に「甲賀市」という地名がありますね。山を越えた三重県側には「伊賀」という地名もあります。両方とも忍者の里として有名です。私見ですが「伊賀」の「伊」とは「伊勢」のことであろうと推測しますが、そうすると甲賀の「甲」とは何でしょう。 滋賀県には他に甲西という町がありました(今は合併でなくなった?)。また、地図を眺めていたら新名神高速道のPAで「甲南」というのを見つけました。これらの地名の「甲」とは「甲賀」のことなのでしょうか。だとしたらその大本である「甲賀」の「甲」は何でしょう。 普通に考えれば「甲」とは「甲斐の国(山梨県)」のことと思われますが、「甲賀」と山梨は何か関係あるのでしょうか?。 一つにヒントになるかもしれませんが、甲賀にある忍術屋敷は「甲賀忍者筆頭・望月出雲守家」のものだそうです。 http://www.teinenjidai.com/ryokou/tabi/h21/05_2/index.html 「望月」とは山梨に非常に多い姓であり、また戦国時代に武田家に仕えた人物として「望月氏」が登場します。下記サイトによると 「望月家は甲賀流の上忍53家の一つである。・・・近江の住人諏訪三郎こと甲賀三郎兼家が33年の間、地底をさまよい、蛇体となって諏訪に現れた後、諏訪に定着し、望月氏の祖となったといわれている」とのこと。 http://www.sysj.com/kansuke/kashin.html どうも、この辺が怪しく思われるのですが、このことについて何か研究結果とか定説とか、ないものでしょうか。ご存じでしたら教えて下さい。

  • 徳川家康の本陣(親衛部隊)について知りたい

    織田信長の本陣の警護部隊は、赤母衣衆と黒母衣衆の二つあったと聞きます。要するに身辺警護集団。 豊臣秀吉の本陣には、黄母衣衆とよばれる警護部隊がいたらしい。 では家康の親衛隊はなんと言われるのでしょうか?。 流れ的に推察すれば、さしずめ白母衣衆・・・って所でしょうか?。 武田信玄の身辺は「小十人頭衆」がいたとの事。家康は、甲斐・信濃を統治する際に、この小十人頭衆を本陣警護に用い、やがて八王子千人同心になったとか。 もっと詳細が知りたいのです。 うろ覚えですが、家康の身辺に桑名藩久松松平氏がかかわっていたとも聞きます。

  • £上杉謙信と武田信玄の関係£

    歴史を語る上で必ずといっていいほど名前の出てくる両者。 彼らを詳しく知りたいと思っていたら、疑問なところがいくつがあったので質問させていただきます。 質問その1、 上杉が龍?武田が虎? 様々な書籍を見てみると、表現がごちゃごちゃなようです。一体どちらが龍で虎なのでしょうか?わかる方おられますか? その2、 上杉謙信が負け知らず・・・本当? さすがに無敗は考えにくいのですが本当なのでしょうか? その3、 武田信玄の死因は? 武田信玄はどうして死んだのでしょうか?やはり病死?でも鉄砲で撃たれたとも聞きましたが・・・・。 その4、 川中島合戦は全部で何回? 川中島合戦には幾つかこれは含めるのか・・?というような小規模なものもありますよね?実際何回とカウントしたほうがいいでしょうか? その5、 両者の名言を教えてください。 ナポレオンの「我輩の辞書には不可能という文字はない!!」などの名言が彼らのにもあるのでしょうか?教えてください。 以上です。どれか一つでもいいです。できるだけたくさんの情報お待ちしています。

  • 武田騎馬隊は存在しなかった???

    「武田騎馬隊」は有名です。 武田騎馬隊というと、私は黒沢明の映画「影武者」のラストシーンで登場する武田騎馬隊を想像します。 しかし、最近、武田騎馬隊は存在しなかったという説をよく聞きます。 武田騎馬隊どころか、戦国時代には純粋な騎馬隊は存在しなかったと言われています。 調べてみたところ 1、武田軍は騎馬隊の内訳は山県昌景300騎、馬場信春500騎など、主だった武将の騎兵数を合わせても約4000騎、出来うる限り多く見積もっても約6000騎であり、武田軍1万3千人のうち半分ないし2/3は歩兵であると思われる。 従って、中国において元を建国したモンゴル軍や、一の谷の鵯越や屋島の疾駆奇襲でしられる源義経のように、騎兵のみで部隊を構成したという事実はない。 また、武田軍には騎兵の最大の特徴である「機動力」を生かした作戦が見受けられない。 つまり、武田騎馬隊は実質的には騎兵・歩兵混成部隊であると言える。 2、イエズズ会のルイス=フロイスがヨーロッパに書いた『日本覚書』によると、 「われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。 われらの馬は非常に美しい。日本のはそれよりずっと劣っている。」 とあります。 3、『甲陽軍鑑』によると 「武田家の大将や役人は、一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が馬に乗り、 残りはみな、馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(巻6品14)」 とあります。 やはり武田騎馬隊は存在しなかったのでしょうか???

  • 影武者ってのはバレないものなのでしょうか?

    戦国時代には武将の死を隠すために影武者が暗躍していました 武田信玄死去の時には弟の信廉 筒井順昭死去の時には木阿弥 徳川家康死去の時には小笠原秀政… と色々な影武者が立てられていますが 近隣諸国の武将も忍者を使って情報を探ってますから 影武者を立てたところでバレそうな気もしますが 実際はどうだったのでしょうか?

  • 武田信玄着用 鎧兜

    甲冑について色々調べています。 中でも武田信玄が着用した鎧兜を探していますが、見つかりません。 特に有名な獅噛の前立にヤクの毛を使用した兜(映画や大河ドラマなどではおなじみ)は本当に着用していたのでしょうか。 現存しているものは江戸期に作成されたものらしく、信玄着用とは言えないと思います。 本当に着用していた鎧兜は存在するのか。 有名な獅の兜は本当に着用していたのか。 某甲冑製作会社が作成している鎧兜の写しはどれだけ忠実性があるのか。 少しでも情報をお持ち方、ご教示お願いします。

  • 通信手段が未発達の状態での戦国時代・世界大戦

    今だったら、「携帯が無かった頃はどうやって待ち合わせしてたの?」とか 「カーナビが無かった頃どうやって首都高走ってたの?」とかって、 若い人から尋ねられる感覚でしょうか。 通信手段が未発達だった状態で、 ・戦国時代、小国といえども広い日本で、どの地方を誰が仕切っているかを  きっちり把握して、そこに攻め込んで領土を広げていって天下統一するなんて  ことが何故可能だったのでしょうか?  狼煙とか情報収集の忍者?とかでしょうが、どれほど実効性があったのか…。 ・第一次・第二次世界大戦と、どうして海を越えて遥か遠方の国と戦争ができたのでしょうか?  太平洋上の島に敵国の拠点があって、そこに向けて戦闘機を飛ばしていくとか  現実感が全く湧かないので…。 ぼんやり疑問に思ったまま、永らくほったらかしにしていたのですが、 このモヤモヤがすっきりすると嬉しいです。 お恥ずかしい質問ですが、参考になるサイトや文献があれば照会いただけますと幸いです。

  • 鉄砲の有効性を理解していた武田勝頼が何故?

    長篠・設楽原の戦いについての疑問点があります。 それは鉄砲の有効性、及び三段撃ちの存在を理解していたと思われる武田勝頼が何故あのような戦術をとったのかということです。 それでもなお勝頼は武田軍が得意な白兵戦に持ち込めるという考えを持っていたのでしょうか? それともやはり織田・徳川軍が陣城を築いているという情報を掴めなかったのが敗因でしょうか?

  • 史実と観光産業が反している場合、大人はいかに?

    私は、歴史学者、藤木久志先生の本を読んで、 「忍者はいない」派です。 忍びや乱破は、略奪目的の貧農のアルバイト兵士で忍者では無い。忍者が活躍する軍記物や忍術書や分限帳の信憑性は低い。忍者博物館の神代文字には笑わされる。そもそも情報工作員が伊賀だの甲賀だの住所を公開するか? などと主張します。 しかし、私にも大弱点。 「忍者不在説を伊賀市で主張できるか。土産物屋さんの事をどう考えているのか。」 と、主張されると、手も足も出せません。 私も地方出身者なので、「村おこし」は批判できません。 その点、冷徹な藤木先生と違って、小和田哲男先生なんか、甲陽軍鑑を一部弁護し、武功夜話を認め、忍者ネタも信憑性の低さを指摘しつつも、断言は避けています。先日、小和田先生の時代考証の提言を、いかに脚本家や演出家に却下されてしまうか、の悲喜劇文を読んで、小和田先生を尊敬しましたよ。日本の文系学者には珍しく社会性?いや、実用性がお高い。テレビでも無邪気に甲陽軍鑑の車懸かりを信じ込んでいる軍事評論家相手にに苦労してましたし。 さて、諸兄、歴史趣味者や歴史学者は、観光産業や大河ドラマレベルマスコミにどのように対応すべきなのでしょうか?

  • いじめを無視した次の対処

    シンプルに思うのですが、いじめを無視するといじめっこは大体ストーカーのようにいじめに固執し、仲間を作り、私の情報収集をして、絶対に振り向いてくれるように仕向けるのですが 1.それでも存在を消すがごとく無視を続ければよいのでしょうか 2.そこまでの我慢を強いられることに疑問を感じるのですが、慣れてそれがあたりまえになれば我慢にもならないという境地に達するのでしょうか もう少しで疑問がでなくなりそうなので、連投ご迷惑とは思いますがお付き合い願います。よろしくお願いします。