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現代において悲劇は存在し得るのでしょうか

yuki-haruの回答

  • yuki-haru
  • ベストアンサー率46% (6/13)
回答No.1

悲劇が存在するかどうかとの事ですが、演劇(絵空事)としての悲劇でしょうか。それとも日常新聞などを騒がせている事件(現実)としての悲劇でしょうか。  悲劇という呼称は古代ギリシャ悲劇(ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデス等)からとられています。ある高潔な人物がどうしようもない人生の歯車に狂わされて悲劇的に人生の幕を閉じるというもの。彼がその転げる坂道から抜け出せないことを観客全員が知っているというもの。運命の力に英雄的に抵抗する人間の姿。神々の支配の中で恐るべき危機に直面した人間の克己の姿の高貴さ。などなどが描かれています。  で、悲劇は存在するかですが、悲劇自体は存在したとしても悲劇に感動できる民衆は存在するかということでしょうか。私は仏文はまったく暗いのでよく知りませんが、ラシーヌのような(小難しい)劇をみても感動するかということでしょうか。  私は悲劇自体は既にあるので存在すると思います。それに感動するかどうかは個人の自由で、古典で有名で昔の人が感動したからいいものにちがいないというものではありません。多分私はラシーヌは楽しめないでしょう(好きな方、ごめんなさい)。ただ演劇は、時代背景や言葉遣いや舞台は変わっても、人間や人生についてある普遍的なものを型として扱っていると思いますので、現代であろうと古代であろうと関係無く感動するものには感動すると思います。  ‘色々な場合’というのが何をさすのかわかりませんが、付けたしとして、現実の事件によく新聞の見出しなどで「またも一家惨殺の悲劇!!」というのは‘惨劇’の間違いです。  以上、以前聞きかじったことを資料もなしに語ったので、もしかすると誤記があるかもしれません。とりあえず参考にしてみてください。

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