解決済みの質問
19世紀前半くらいです。
私有財産性の確立(ナポレオン法典)
特許制度の確立(19世紀初頭イギリス)
これらによって、知識が個人的に金になる事になり、知識が科学になった。<この辺、説明しづらいですが。
19世紀半ばまで、科学者はいませんでした、Scientistはおらず、自然哲学者(Natural philosopher)と自称していました。
今でも、日本では理学博士とか文学博士とか違いがありますが、海外では理学も文学も Ph.D 哲学博士です。これは、大学の博士制度ができた段階が18世紀とかで、その段階では、理学も哲学も一緒だったことを示します。
たとえば、和算の分野で欧州と比較すると、微積分の発見は同時期の17世紀後半です。
ネルチンスク条約(1689年) キャフタ条約(1727年)は基本的に清国の軍事的優位の元で結ばれています。
アヘン戦争(1840年)によって、欧州の軍事的優位が証明されアイグン条約(1858年)が結ばれています。
つまり、軍事においても、18世紀前半は清国優位、19世紀半ばで欧州優位。逆転はその間に行われていたと推測します。
投稿日時 - 2007-03-18 13:40:40
お礼
お答えいただきありがとうございます。
流れが分かるようになりました。
いろいろキーワード(私有財産性の確立(ナポレオン法典)、
ネルチンスク条約(1689年)など)を元に勉強したいと思います。
投稿日時 - 2007-03-21 19:02:17
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ベストアンサー以外の回答(5件中 1~5件目)
既出のコメントをなぞるような回答ですが、
科学技術の逆転 : 16世紀の時点で、印刷・火器(鉄砲)などの主要分野で逆転
軍事力 : 総合的には、産業革命にて逆転
という捉え方が適当ではないかと思います。
最先端の研究レベルで中国と西欧のどちらが優れていたかは分かりませんが、実用レベルで行くと、西欧で聖書の大量印刷&鉄砲の大量生産が進んだ16世紀の段階が、肩を並べた状態から一歩リードする状態になったころではないでしょうか?
(ちなみに、大陸vs辺境という歴史の捉え方をすると、日本も西欧と同じく、16世紀に始めて中国文明に主要分野のいくつかで追いつき、追い越し始めています。西欧以外で鉄砲を自国生産できたのは、メキシコと日本だけでした。)
ただ、この時点では総合力では中国には叶いません。No.4さんのご指摘の通り、産業革命以前は(モンゴル帝国などの騎馬技術や鉄器の独占使用などによって一時的にバランスが崩れる例を除いて)単純に人口の差が国力の差に比例していたからです。
ちなみに、16世紀の大航海時代で西欧は海外旬出を始めますが、この段階で植民地化できたのは中南米・アフリカといった文明の遅れたor軍事力が極めて弱かった地域のみで成功していて、中東やインド、中国においてはまだ支配者から居住権を認めてもらって交易を始めた段階に過ぎません。
アジアにおける植民地化を進められるようになったのは、18世紀の産業革命によって、国力を決める要素が人口から機械化された動力に移ってからの話です。
投稿日時 - 2007-03-20 20:54:54
お礼
お答えいただきありがとうございます。
面白い話ですね。
本当に色々な方からのお話しが聴けてさらに知りたいと思いました。
投稿日時 - 2007-03-21 19:07:55
1500年当たりという記述のある本をいくつか見かけます。原典は何でしょう。
もちろん分野によっても違いますから、統一して「何年だ」というのが的確だとは限らないでしょうね。
グーテンベルクの印刷革命当たりから少しずつ格差は出てきたようですけれども、
決定的な事項は、前の方々の仰るよう17世紀科学革命と18世紀後半からの産業革命(本格化したのは19世紀)なのでしょう。
けれども、産業革命における工業機械の改良は町工場の職人によるところも大きく、
科学革命とは別途に進行した因子も無視できないと聞きます。
中国からイギリスへと工業技術が伝達する過程でも、モンゴル帝国や中東、
イタリアやオランダといった経由地を経て様々に改良されていたと聞きます。
経済的所得水準では、Angus Maddisonによると13世紀半ばには
もう西欧が中国を逆転していたということです。
アーノルド・パーシーの『世界文明における技術の千年史』 は、
前近代におけるアジアの高い技術の記述を優先した技術史が面白かったですよ。
中国やインドでも精巧な工業機械の発明・改良が
盛んになされていたようです。
軍事力なるものはもっと不明瞭な気がします。
宋軍は兵力・装備では遼軍や金軍には負けないはずなのですが、
実際には散々に叩きのめされています。
砲兵器も初期には宋軍が使っていたようですが(元寇の「てつはう(鉄砲)」ですね)、
技術は各地に移転されて改良されるものです。
投稿日時 - 2007-03-19 14:41:32
お礼
お答えいただきありがとうございます。
経済的には13世紀にというところが面白いですね。
投稿日時 - 2007-03-21 19:05:22
現代でもそうですが、科学技術の開発を行う人は、消費はしても生産はしていません。(その新しい技術が、応用化され実用化するまでは、物資・資金・時間を消費するだけです。)
ですから、余剰な生産力を持つ所でしか、新しい技術は生まれません。そうすると、平和で国力が充実した2つの国を比べると、人口の大きな方ほど科学技術が進歩しやすくなります。
米は麦に比べて、単位面積当たりの生産力が高く、東洋の米作地帯では人口が西洋に比べて多くなりますが、特に地形的に面積の大きな統一国家となり易かった中国が、その人口を背景に科学技術をリードしました。
これが逆転する最大の原因は、イギリスで産業革命が起こり、少ない人口でも大きな余剰生産を生み出すことができるようになったからです。
特に、ワットによる蒸気機関の改良(1769年)で、人間や家畜の何倍もの力をどこででも利用することができるようになり、生産力が飛躍的に増大し、技術開発に専従する人間も増加することになりました。
ですから、1700年代の終わりから1800年代の初めにかけて、つまり18世紀の終わりから19世紀の始めの頃に、完全に逆転します。
参考:鉄砲について。
鉄砲伝来が1543年?と言われていますが、その数十年後の戦国時代末期には、ポルトガルの何倍もの数の鉄砲が日本国内にあふれていました。なぜなら、当時の日本の人口は2000万以上でポルトガルはその十分の一ほどの人口しかなかったからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%A0%B2%E4%BC%9D%E6%9D%A5
産業革命が起こるまでは、国の人口と国力・生産力・技術力はかなり相関関係があったのです。
投稿日時 - 2007-03-19 11:46:26
お礼
お答えいただきありがとうございます。
説明がなるほどの連続です。
投稿日時 - 2007-03-21 19:09:38
逆転の定義が問題になるかもしれませんが、東洋が西洋に対して軍事的に優位であった時期は ジンギスカンの時代:13世紀 です
西洋が東洋に対して優位に立ったのは アヘン戦争で イギリスが中国を破った時点ですよね 19世紀前期:
では転換点は何かというと
火薬 特に銃器の進歩が大きいと思います
体系的に 銃で相手を殺す技術は 16世紀の鉄砲伝来ですよね
この時点で 銃を軍隊で使ったのが
西洋;軍艦に搭載している
東洋:体系的には使用していない
と分かれたんではないでしょうか?
西洋では、蒸気機関の発明によって、工業化され、市場を開拓する必要が生じ、それで銃をつかった植民地がでてきたのかもしれません。
投稿日時 - 2007-03-19 09:43:41
お礼
お答えいただきありがとうございます。
いろいろな視点から考えることができますね。
投稿日時 - 2007-03-21 19:04:00
軍事も含めるとややこしくなる話ですが、おおざっぱに。
東洋(イスラム圏を含む)へ追いついてきたのが、ルネサンス期。
逆転したのは17世紀の科学革命以降でしょう。
何をもって逆転と定義するか、が一番問題なのですが、
個人的には「主観主義」→「客観主義」という移行が、一番重要で決定的だと考えます。一般論として、主観的不条理と、客観的合理が争えば、客観の方が有利ですから。
投稿日時 - 2007-03-18 10:55:55
お礼
回答ありがとうございます。お蔭様でよく理解することができました。
教えていただいたキーワードを元にいろいろと勉強してみたいと思います。
投稿日時 - 2007-03-19 09:58:56