解決済みの質問
反発する気持ちはゼロであったとは言い難いでしょうが、まあ、しようがない、実力がある者に付いて行きましょう、というような感じかなと思います。
(1)当時は後年の江戸時代に比べ「君に忠」のような儒教的道徳観念は希薄であっただろうと思われる(実力次第の時代)。
(2)竜造寺氏自体に下克上的な過去が数多く見られること。
(3)慶吟尼が鍋島清房に嫁ぎ、竜造寺隆信と鍋島直茂を兄弟にしたように、直茂の武将としての資質が傑出していると周囲がみていること。そして事実、戦上手で人情味があり政治力も抜群であった(一方、宗家の当主は暗愚が続く)。
(4)秀吉が鍋島直茂の国政執行を許していること。
(5)竜造寺分家に対しても、それなりの処遇をしていること。
以上のようなことから、反発が噴出するようなことは、なかったのかなあと想像します。
投稿日時 - 2007-02-19 17:55:27
お礼
そのような事情があったのですね。加えて鍋島直茂という人物も傑出した人物だったのでしょうね。
秀吉は大老にまで取り立てた小早川隆景に、越後の直江山城守、それに堀秀政を天下の三陪臣と称したということですが、鍋島直茂も陪臣としては彼ら同様国を治めるに足る逸材だと考えていたのでしょうか。
ありがとうございました!
投稿日時 - 2007-02-20 19:02:41
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ベストアンサー以外の回答(3件中 1~3件目)
「竜造寺から鍋島への禅譲」は、現代風に言えば「親会社による子会社社長のすげ替え」と考えてください。親会社は豊臣政権(徳川政権)、子会社は「肥前の国」です。
竜造寺隆信の死後、竜造寺家の勢いは急速に衰え、家臣筆頭であった鍋島直茂が肥前の一部を支配している状態でした。隆信の後継者と内外でみなされる竜造寺一族の者はいませんでした。
この状況下、秀吉軍が九州に出兵して島津氏を降伏させた結果、肥前の半国が「竜造寺氏」の名義となり、鍋島直茂が名目上の領主の竜造寺政家に代わって、いわば「執権」としてこの領地を支配することになりました。
その後、朝鮮出兵に際しては、秀吉から「鍋島直茂は、肥前の兵を率いて出兵せよ。竜造寺政家は何もしないで良い」という指示が出ました。これが「親会社(中央政権)である豊臣政権による、肥前(株)(肥前国)の社長(領主)交代命令」です。なお、この頃に鍋島(竜造寺)は、肥前半国の領主から肥前一国の国主になったようです。(識者の方、補足お願いします)
その後、関ヶ原合戦の後に江戸幕府が成立すると、肥前一国は正式に鍋島家の領地と認められました。
竜造寺の一門衆はともかく、かつては直茂と同等の竜造寺家臣であった者たちも、「1584年の竜造寺隆信の戦死から20年近く、肥前を守ってきたのは鍋島直茂」である厳然たる事実の前では、中央政権(豊臣、徳川)の決定「肥前の領主は鍋島家」に異議を唱えることはできませんしその必要もありません。竜造寺家の庶家は、それぞれ「竜造寺」の姓を他のものに変え、鍋島家の家臣として十分な待遇を受けたようです。これは、織田家→豊臣家→徳川家という中央での覇権の流れに沿い、
「昨日の同輩が今日の家臣」
「織田家の子孫が、豊臣家や徳川家からそれなりの待遇を受ける。新しい覇者に従わないもの(織田信孝や豊臣秀頼)は滅ぼされる。織田秀信が滅びたのは、『関ヶ原の合戦で西軍につく』という全く別な理由」
と言った事象が起きたのと、規模は違いますが同じことです。
投稿日時 - 2007-02-20 13:16:56
お礼
親会社のよる小会社の社長のすげ替えですか。大名の改易や国替えもそんなものかもしれないですね。
ありがとうございました!
投稿日時 - 2007-02-20 21:07:59
こんにちは。
佐賀藩の体制成立は隆信の戦死以来定着していた「家督=竜造寺氏・支配権=鍋島氏」という体制を幕府が追認したというかたちだったようです。
ですから、ややなし崩し的ではありますが竜造寺家を存続させる為に実質的な運営をそれまで行ってきた鍋島氏が名目上も主となることはそれほど抵抗を生まなかったのではないでしょうか。
これは直茂の器量を見込んだ隆信の母が直茂の父清房に再嫁したことで隆信と直茂が義兄弟の間柄(つまり竜造寺一族に連なると言えないこともない訳です)となっていたことも大きかったかもしれません。
しかし、化猫騒動や竜造寺伯庵事件などによって支配体制の強化を迫られた鍋島勝茂が弟忠茂や子元茂・直澄に分知して支藩をつくったり、一門を上級家臣に取り立てるなどしていますから、鍋島氏の支配もそれほどスムーズに進んだ訳でもないのかもしれません。
何かもう一つまとまってないかもしれませんが、何か少しでもお役に立てたら幸いです。
投稿日時 - 2007-02-19 19:03:01
お礼
鍋島家にとってみたら、竜造寺一門の存在は厄介なものだったのかもしれませんね。確かに三十五万石程度の藩なのに、内分の3支藩の石高は少し過大だと思いますが竜造寺一門への牽制ということもあったのかもしれないですね。
ありがとうございました!
投稿日時 - 2007-02-20 19:07:16
私の先祖は鍋島の家臣(そうなる前は別の龍造寺の家臣の家臣)でしたから龍造寺の陪臣になるわけですが、反発があったという話は聞きません。それこそ、当時は実力の世の中で下克上は当たり前だったのでしょう。
ただし、猫騒動の話が伝えられているということは、龍造寺側に恨みが全くなかったことはないのでしょうね。
投稿日時 - 2007-02-19 16:08:17
お礼
ご先祖が鍋島家の家臣だったのですね。
昨年、佐賀城に行きましたが立派な御殿が再現されていますね。同じ再現モノでも、乱立するコンクリート天守閣と違って当時の雰囲気を味わえて良かったです。
井伊直孝が病弱の兄の変わりに彦根藩を継いだ例などもありますが、臣下が平穏に主君に取って代わった例は珍しいので質問させて頂きました。
ありがとうございました!
投稿日時 - 2007-02-20 18:57:52