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人の意思と身体の関係について

 例えば人が自分の意思で右手を動かす時、脳内で化学物質が合成されたり、筋肉に電気的な信号が送られたりして、人体の複雑なシステムを介して右手が動くことになるんですよね。  そのシステムが機能する一番始めの工程、つまり人が右手を動かすことを意図した瞬間に身体に最初に発生する変化は何なのでしょうか。

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  • ruehas
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回答No.6

こんにちは。 ANo.5です。 長い回答をみんな読んで頂き、本当にありがとうございます。 さて、我々が行っているのは科学哲学に匹敵する究極の論議です。計らずもそのようになってしまいましたが、如何に出口の見えない究極の命題であれ、どっぷりとドツボにはまるにしましても、それが独り善がり、独善的なものであってはいけませんよね。私がこれまでに述べましたことには以下のような既存認識が背景としてあります。 「エントロピーの法則」 「散逸系」 「複雑系理論」 「不確定性原理」 どうしてこんなものが関係してくるのかと思われるかも知れませんが、世界中で「物理学者」といわれるひとたちが、このようなものを用いて「生命科学」の分野に立ち入り、見事な実績を挙げたという例は意外なほど少なくありません。 質問者さんがこのようなものをどの程度理解しておられるかは私には判断が付きません。仮にご存知なかったとしましても、まるで質問者さんはご自身の考察によってそれに近い域まで辿り着いているのではないかと思われるご発言がこれまでにもたくさんありました(このため、中々判断が付けづらかった)。だとしますならば、質問者さんの洞察力にはたいへん素晴らしいものがあると驚かされるしだいであります。 ですが、問題の性質上やはりこの先は、答えを出すということよりも、既存の科学理論も踏まえ、でき得る限り客観的な議論をすることの方が重要になると思います。とはいえそうなりますと、私の数少ないネタもここで出し尽くしてしまうということになりますが、もちろん、ここまできましたらその手間は惜しむものではありません。くどいようですが、もう一度お付き合い下さい。 >この場合、Aさんが右に進んだことについて「Aさんには選択権がなかった」あるいは「右に進んだのはAさんの意志ではない」「道の選択はBさんが行った」「Aさんが右に進むことは事前に決定していた」どの表現も間違いではないと思うんです。 いや、これは質問者さんの単なる見落としですよ。 その前に、AさんにはBさんの指示に従うかどうかの選択肢があります。Bさんの指示通りに右の道に進んだのであるならば、それはAさんがBさんの指示に従うことを自分で選択したということですよね。 >また、現在も「意志」を演算処理の結果としてのニュアンスを込めて用いることは一般的ではないと思うんです。 >その「対象」としての言葉の意味を変質させるのは正しくないんじゃないかと思えるんです。 >もともと物理や化学の世界で「意志」という言葉を用いることはあまりないと思います。 >そうであれば脳をただの物質として物理、化学的に論じるだけであれば「意志」という言葉は不要だと思うんです。 そうですね。仰る通りでした。 私もこれに関しては唐突な持論の押し付けであったと反省をしております。そして、それが単なる概念でしかないならば、このようなものを自然科学における客観的な解釈に用いるのは不適切です。 実は、個人的な興味から脳の勉強を始めまして、現在、私は行動選択の過程で発生する「意志」という現象は、一般に用いられる概念とはもう少し違った性質を持つのではないかと考えています。これが持論の押し付けになってしまったわけですね。 >そういう旧来的な(国語的な?)意味での「意志」を伴った「選択」には「選択の結果が事前に未決定」であることと、「そのものが主体的に選択する」ことが必要だと思うんです。 >むしろ「意志」の正体が演算処理の結果であったとなった場合、現在的な用法での「意志」という概念は否定されてしまうように思えるんです。 ご指摘の通り、私個人としては明らかに否定をしています。 先に述べました通り、我々の脳内に現象として発生する「意志」には、その「性質」というものがあります。何でもそうですが、まず構造や性質が明らかにされなければ、その「存在意義や理由」を知ることはできません。 意志というのは「行動選択の動機」であるというのは質問者さんにもご賛同頂けたというお返事を頂いています。では、これはどちらかといいますならば中枢系における末梢出力に対応するものですから、行動選択という制約を外し「選択の動機」とすることができます。そして、それは中枢系の反応特性という「選択性の存在」を前提とし、入力という「要因」によって成立するものです。 従いまして、それは「選択の要因」として発生するものであり、このように不必要な要素を全て取り除いたものが「意志」というものの本質的な性質ということになります。そして、これまでのように、ここに「人間が」「主体的に」「意識された」といった何が付加されましても、その本質に全く変わりはありません。 「エントロピーの法則」に従うだけであるならば、そこに選択枝はないと申し上げました。そして、意志の本質とは「選択性の存在を前提としたその要因」です。 生物を初め、この世の全ての自己組織化現象がエントロピーの減少に逆行するという選択枝を持っています。「エントロピーの必然的減少」というのが宇宙の大原則であるならば、滅びるはずのものが滅びない、絶滅するはずのものが絶滅しない、生まれるはずのないものが生まれてくる、ここに作用しているのは全てが「意志」です。 我々は良く、「自然界の意志」とか「宇宙の意志」といった言葉を使いますよね。このようなものは主体に人格というものがなく、結果は必然でしかありません。ですから、一般的な概念としては対応していないわけですが、では、単なる比喩的な表現かと言いますならばそうではありません。我々がそう感じるのは、このような現象には「意志」というものが持つ性質と同じものが間違いなく反映しているからです。 エントロピーに逆行し、散逸構造を持つ自己組織化現象には、必ず意志と同じ性質が現れます。 この内、生命現象の場合に限り、それは主体にとっての「生物学的価値判断」として働きます。しかしながら、その価値判断が生得的に定められた本能行動であるならば、それは個体の意志ではありません。ならば、生後学習によって獲得された反応特性による生物学的価値判断が自分の意志ということになります。もし更に、それが自覚された「人間の理性的な判断」でなければならないというのであるならば、私としては、これは生物学的論議として受け入れることはとてもできません。 従来の定義では、この何処までを意志と呼ぶかというあやふやな概念でしかありません。ですから、これでは意志というものの存在意義を客観的に導き出すということはできないわけです。 さて、生命現象に限っては、それが「生物学的価値判断」であるとするならば、意志というものの「生物学的意義」までは追い詰めたことになります。ならば、生物以外の現象に発生する意志と同様の選択とはいったい何のためにあるのでしょうか。更にここで折り返しをしますと、生物学的な意義までは良いのですが、そもそも生物がそれによって存続しなければならない理由とはいったい何でしょうか。どうして宇宙はエントロピーの法則に従って滅びてゆくのでしょう。そして、全ての散逸系は、いったい何のためにエントロピーに逆行して自己組織化しなければならないのでしょうか。 これをやってドツボにはまらないひとはいないと申し上げましたのは、このような理由からです。 >つまりは私が存在の有無を確認したかったのは「不確定要素」、例えば概念としての「意志」もそうですし、脳内・生命内に限らず、自然界のどこかに「完全な乱数計」的なものがあるとすればそれでもいいんですが、そういうものだと思います。 質問者さんの仰る通り、現在の科学では二つの理論によって「完全な不確定系」というものは必ず存在するとされています。ひとつは複雑系科学に類する「カオス理論」あり、もうひとつは量子力学における「ハイゼンベルクの不確定性原理」であります。 この二つは全く異なるものですが、共にそれぞれが、 「過去の現象を正確に逆算すること」 「未来の結果を正確に算出すること」 このようなことはできないと否定しています。 そして、 >だって自分ではその都度迷ったり、決断したりしているつもりでも、それは錯覚(大脳皮質の無自覚?)で、実際はあらかじめ脳内で回答は決まっているんですから。 実は、質問者さんがご心配なさっているこのようなことは、かつて科学の歴史の中で実際に起こったことなんです。 運動の法則を解明した「ニュートン力学」では、「XYZ座標」に時間や運動量などの初期値が決定されるならば、その法則に基づいて運動の結果が求められます。つまり、ニュートン力学というのは「未来の結果」を計算によって導き出すことができるわけです。 では、未来の結果が全て決定されているとしますならば、この世のあらゆる現象はただ時間と共に次々と出現するだけであり、我々が行う意思決定は何の意味も持たないことになります。そのため、17世紀に誕生したこのニュートン力学における「確定論」は、「ハイゼンベルクの不確定性原理」が提唱されるまでの間、我々の「自由意志」というものを250年間に渡って頑なに否定し続けることになります。 21世紀を迎えた現在でも、人工衛星の軌道計算にはニュートン力学が用いられています。ですが、分子・原子によって構成されるミクロの世界では「観測」という行為が成されることによって現象そのものが変化してしまいます。このため量子力学では、観測が行われ、結果が確定するまでは、それがどのような現象として現れるかは確率でしか求めることができないとされています。未来といいますのは、「発生し得るありとあらゆる可能性の集合」であり、現在に結果以外の可能性が全てゼロになるまではそれを確定することができません。この「不確定性原理」により、量子力学では「未来は未確定である」と結論付けられました。 「何でも計算できる神の計算機があれば宇宙の誕生を明らかにすることができる」と言ったのは、ニュートン力学の熱狂的な崇拝者であるフランスの数学者ラプラスというひとであります。 サイコロの落下には如何なる空気抵抗が加わり、それがテーブルの上でどちらに転がるか。更に、そのサイコロを振ったひとの手や身体がどのような生理状態でどんな力を与えたのか。このようなことが分子・原子のレベルで全て計算可能であるならば、サイコロの目は予測することができます。しかしながら、量子力学は分子・原子のレベルでそれを否定したことになります。 この世の全ての現象は無数の可能性から偶然によって選択されるものであり、未来は未確定です。これにより、ニュートン力学における「確定論」は20世紀(1927年)を以って崩壊し、我々の「自由意志」は晴れてその存在を許されることになりました。 複雑系科学ではこれとは少々異なり、現象の積み重ねによる「誤差の指数関数的増大」を不確定の要素としています。 有名なのは「パン生地の折り畳み」という思考実験ですが、やわらかいパン生地に食紅を垂らし、二回、三回と折り畳みながらそれをこねてゆきますと、精々十数回当たりで食紅はパン生地全体に分布してしまい、もはやここから初期の状態を逆算することはできません。 逆算することができないならば、初期状態から未来の結果を予測することもできないということになります。ところが、絶対に予測できないにも拘わらず、これによって発生する未来というのは、よほど違ったやり方をしない限り、どれもこれも「パン生地に食紅が混ざった状態」というみな同じ結果として現れることになります。 これは、繰り返される作業によって発生する「現象の軌跡」が、ある時点からみな同じところを通るようになるからです。このような周期を持つ現象の軌跡を「アトラクター」といいます。 誤差というのは必ず発生するわけですから、同じ軌道を通るということは絶対にあり得ません。ですが、同じ周期で繰り返されますので、時間が経てば、やがてそのアトラクターは特定の「フラクタル構造」を持つようになります。このアトラクターの性質が練り上がったパン生地の状態を決定しています。ですから、何度やっても同じものが出来上がるというわけですね。 台風というのは再現性のある現象ですし、波には「波の形」という約束事があります。無数に集まった空気や水の分子の営みには計り知れないほどの誤差が発生します。にも拘わらず、それは初期状態に端を発する指数関数的な増大を経て台風となり、波となりますが、それ以外のものになることはありません。これは、無数の因子によって構成される複雑系に形成されるアトラクターが「集団の性質」を決定しているからです。 1957年、ソビエトのスプートニクが人類初の人工衛星として軌道に乗ったときのことです。かのノーベル賞物理学者である湯川秀樹博士がこう仰ったそうです。 「これ以上のニュートン力学の証明はないね」 このとき、既にミクロの世界を扱う量子力学の分野では「ハイゼンベルクの不確定性原理」は発表されており、ニュートン力学における「確定論」は否定されています。ですが、やはりマクロの世界では人工衛星はニュートン力学で飛ぶのです。 我々の脳の最小単位である神経細胞も、更に突き詰めれば不確定性原理の適用されるミクロの世界の現象によって成り立っています。ですが、片や脳は無数の因子によって構成される複雑系であり、指数関数的な誤差の下に特定の反応を幾度でも再現します。そして、この性質はエントロピーの減少に逆行し、生命としての機能を司る役割も担っています。このため、そこで行われる情報処理の結果は必然的に生命活動の実現と適合することになります。そして、マクロの部分では様々なパターンの入力に対する論理的な演算処理によって具体的な結果が選択されています。 脳がコンピューターと違うのは、同じ反応を繰り返すことはできても、全く同じ結果を導き出すのは不可能であるということです。そして、人生が映画と違うのは、未来が未確定であるということですね。 私のネタもいよいよ尽きました。しばらく生理学や生物学の回答しかしていませんでしたので、こんなことを考えるのは久しぶりです。記憶がちょっと危ういので、もしかしたら間違った説明もあるかも知れません。

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 既にお察しかとは思いますが、私は「エントロピーの法則」「散逸系」「複雑系理論」「不確定性原理」いずれの既存認識についてもほとんど知識はありません。それらの断片にはどこかで接しているかもしれませんが…。 その要領を得ない疑問点を汲み取り、ここまで根気良く的確にご説明下さいましたことに本当に感謝しています。 まず「意思」の性質についてのお話、先に書きましたように、「エントロピーの法則」「散逸系」といったものに認識の薄い私が考えたこともない視点で、大変考えさせられる内容でありました。 末節的なことかもしれませんが、ひとつ疑問なのはそれが何故「意思」なのか?ということです。 >「エントロピーの必然的減少」というのが宇宙の大原則であるならば、滅びるはずのものが滅びない、絶滅するはずのものが絶滅しない、生まれるはずのないものが生まれてくる、ここに作用しているのは全てが「意志」です。 前回書きましたように、「意志」という言葉はおそらくは「物理」や「化学」よりも古い、非常に概念的な言葉だと思っています。 そして、概念としての「意志」はruehasさん自身明確に否定されていますし、「人間が」「主体的に」「意識された」といった何かが付加されるかどうかも関係ない、そして本能的行動や、生物以外の人格のない現象にも援用すると仰る「それ」をなぜ「意志」と呼ぶんでしょうか?その性質を「意志」も持つというだけなら、「意志」の必要条件のひとつに過ぎないように思うんですが…。 例えば「散逸系の脱エントロピー性」というような言葉では駄目なのでしょうか? 「カオス理論」「ハイゼンベルクの不確定性原理」いずれにつきましても正に私が知りたかった内容であるように思います。それらにつき説明を拝見し、考え始めると疑問は尽きませんが、それについてはもう少し勉強してから出直したいと思います。いい加減、ruehasさんに頼ってズルし過ぎですもんね。 ただ、量子力学というものは昨今、話題にもなり私も関心は持っていました。(勉強は怠っていましたが…) これはただの感想なのですが、人間が量子論の世界にまで、まがりなりにも到達することを遺伝子は想定していたんでしょうか?そして人間はそれが理解できるように「設計」されているんでしょうか?そんなことを感じさせるくらい量子論って不思議ですよね。

その他の回答 (5)

  • ruehas
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回答No.5

こんにちは。 ANo.4です。 有意義な補足をたいへん興味深く拝見致しまた。 やはり、質問者さんのご質問は奥が深かったんですね。これをやってドツボにはならないひとはいません。もちろん、きちんとした回答を差し上げるなどということはとてもできませんが、ほんの少しばかり問題を整理してみたいと思います。 >何故、「選択特性」とか「選択反応特性」ではなくて「選択『的』反応特性」なのか?それは「選択に見えるけど選択じゃない」反応特性だからではないでしょうか? 「反応特性」があるということは、入力がありさえすれば「反応する・しない」によって「0,1」の結果が生み出されるということです。ですから、反応特性というのは必然的に「選択性」というものを持っているということですよね。 神経細胞に「70mAの閾値」が設けられているということは、ここには既に選択性があるということです。では、複数の細胞によって構成されるコラムが並列入力に対して反応するということは、一個の神経細胞のような単なる入力信号の大きさや数だけではなく、「特定のパターン」というものに対してより高次な選択性を示しているということになります。 今まで考えたことはありませんでしたが、私は、このような高次性、あるいは「情報の有意性」に対して「選択的反応特性」という言葉が宛がわれているのではないかと思います。ですが、これでは質問者さんの疑問に答えたことにはなりませんよね。 では、それを司る「意思」あるいは「意志」とはいったい何でしょうか。 >「選択」とは意思の存在を前提に、生物が行なう恣意的な活動のひとつを指す言葉だと思うんです。 その通りですね。 「生物が行う恣意的な活動」とは即ち「生物学的な価値判断に基づく欲求の実現」です。ですから、「前提」としてそこに存在するのは反応を発生させるための「判断規準」であり、それに従う「行動選択の動機」です。我々は、この「行動選択の動機」もしくは結果を「自分の意志」と呼びます。また、その判断規準を「個人の価値観」としても一向に構わないと思います。 では、本能行動の選択も意志ということになりますが、こちらは生得的に定められた全人類に共通の反応規準であり、結果に個人差や個性というものが一切ありませんので、「種の意志」ではあっても、こればかりは「自分の意志」「個人の価値観」とは言えませんよね。 >「未決定のことがらを決定すること」、この場合では、道の左右を選ぶことが「選択」だと思うんです。 >ご説明によると、選択的反応特性の場合、(複雑ではありますが)既得の反応特性と情報の種類によって事前に処理の内容も確定しているわけですよね。 仰る通り、「反応特性」というからには、正に反応の結果は予め特定されているということになります。では、これでどうやって論理的な処理を行い、様々に異なる結果を導き出すことができるのでしょうか。話は至って簡単です。複数の反応特性を持つものを素子として並列回路を組んでやれば良いわけです。 例えばの話ですが、「大きい・小さい」に選択性を持つものと値段の「高い・安い」に反応するもので並列回路を組むと以下のような結果が得られます。 「大きい:○/高い:×」=「1,0」 「小さい:×/安い:○」=「0,1」 「大きい:○/安い:○」=「1,1」 右の道へ行くか左へ行くかもこのような演算によって処理され、決定された未来の結果以外の何物でもありません。生物の恣意的な活動とは生物学的な価値判断に基づく行動選択の動機です。我々はそれを「意志」と呼びますが、意識行動であれ無意識行動であれ、その選択の動機や理由が大脳皮質に自覚されているかいないかは一切関係がありません。 >そもそも物質が時間の経過と共に反応しあって変化するのは当然であって、その工程が複雑になったとしても経時的な物質の変化を「選択」と呼ぶのは正確でないように思います。 そうですね。 単なる時間的・量的変化をそのまま情報として扱うことはできません。ですが、神経細胞には70mAの閾値という「臨界点」があります。これにより、物理量の増加というアナログ信号は「0,1」というデジタル信号に変換されています。ですから、これは入力に対する「選択」ということで間違いはないわけです。 >ですから、脳を純粋に物質として論じる場合に、脳や脳の構成物質が「選択」を行なうことはあり得ないし、むしろ「選択的」という言葉は「擬似選択」であるという意味で使われているように思えるんです。 もしかしたら、質問者さんは物質や自然現象が選択性を持つはずはないとお考えでしょうか。これはたいへん重要なことですが、「選択性」はこの世の現象のありとあらゆるところに幾らでも自然発生します。 神経インパルスとは細胞内の電位差が臨界に達することによって発生する一種の「相転移」です。これが起こると細胞内の電位差は一旦開放されてしまいますが、イオンポンプの汲み出しによって再びインパルスの発生が可能な状態に戻されます。 さて、ここからは神経細胞だけに限った話ではありませんが、つまり、本来「生命反応」といいますのは単にエネルギーの時間的増加に比例しているのではなく、必ずこのような「脈動」を繰り返すものなんです。エネルギーの増加に比例して行ったきり、元に戻らなければ生物はそれで終わりです。ですが、心臓の動き、肺の呼吸、筋肉の伸縮、そして生と死、生命とは全てが繰り返される脈動です。ですから、この「脈動」こそが生命の本質であり、脳は物質であると同時に生命体であるというわけなんです。 この世の現象は全てが単純な構造へと移行するというのが「エントロピーの法則」です。では、相転移を起こした神経細胞が電位差を確保し、再び複雑な状態に戻るのは、これはエントロピーの大原則に反しているということになります。ですから、このためにはどうしてもそれに見合ったエネルギーや物質の消費が必要になります。 神経細胞にはイオンポンプを稼動させるための栄養エネルギーが絶えず供給されています。このように、エネルギーや物質の出し入れを行い、エントロピーの減少に逆行するものを「散逸構造」といい、無数の因子によって構成される複雑系においてこのような「集団としての新たな性質」が自然発生し、その機能が維持されることを「自己組織化」といいます。従いまして生物とは、「散逸構造によってエネルギーを消費し、エントロピーの減少に逆行する究極の自己組織化現象」ということになります。 生物は、細胞単位、個体単位で散逸構造を自己組織化しています。そして、生命現象を始め、生態系、気象現象、地球システム、このようなものは全て太陽エネルギーの供給に対する散逸系であり、エントロピーの減少に逆行する自己組織化現象です。 エントロピーの法則に従うならば選択肢はひとつしかありません。この場合、全てが最も単純な構造に移行するわけですから、生態系のような物質の集積も、気象現象のようなエネルギー循環も一切何ひとつ起こりません。地球は全ての物質とエネルギーが均等に分散され、何の変化も起こらない均衡状態に終焉するはずです。ですが、そうはならないということは、全ての自己組織化現象にはエントロピーに逆行するという「別の選択肢」、即ち何らかの選択性が必ずや存在するということになります。まして生物のような複雑なシステムが何の選択性もなく自己組織化するというのはちょっと考えられませんよね。ですから、エントロピーに反する選択性を持っているかいないか、これが「散逸構造を持つ複雑系」と「単なる物質」との決定的な違いです。そして、脳といいますのは極めてエントロピーの高い複雑系として自己組織化されたものです。 エネルギーの物理的累積が行われるならば、如何なる物質もやがて臨界に達し、破壊するか相転移するかします。これが破壊されずにエネルギーの集積に戻れるならば、それは脈動として再生・継続されることになります。そして、この脈動が生命反応の本質であり、時間的変化に選択性を持つのは臨界点があるからです。 >だけど、普通、無作為な接続に無作為な信号を流しても、無作為なまま接続状況が変わるだけのように思えるのですが… これは私の説明が悪かったのかも知れませんが、記憶形成の構造から見ても、特定のパターンが繰り返し入力されることによって神経接続に条件付けが成されるということではご納得頂けませんでしょうか。 >一見、無作為にみえる初期の細胞同士の接続にもなにか「仕掛け」があるように思えます。この疑問は遺伝子とかの問題になっていくのかもしれませんが、どこまで複雑なシステムなのか想像もつきませんね。 そうですね。 まず、抹消神経系の感覚・運動連絡や、生命中枢のプログラムは遺伝子によって決定されているものです。先の回答で触れましたが、視覚処理における反応特性は生後の視覚学習によって接続が強化されるものですが、その設計図は予め決められているようです。そして、喜怒哀楽は全人類に共通の生得的な反応パターンですが、大脳辺縁系はそれをどのように使うかを学習しなければなりません。 また、人類には言語中枢の遺伝子があることは間違いないのですが、生後に何の言語学習も成されなければ、それはただの連合野でしかありません。では、言語中枢の遺伝子があるということは、生後に言語学習の成されることが予測されているということでしょうか。これに関しては専門の学者さんたちの間でも未だ議論の真っ最中ということだそうです。 大脳皮質、大脳辺縁系、小脳、大脳基底核、このような学習機能を持つ中枢は、生まれたときにはほぼ白紙状態です。生まれながらにして英語が話せればそれは天才児ですが、言語中枢が白紙なのは、日本という環境が与えられたらまず日本語を覚えなければ都合が悪いからです。学習記憶が白紙なのは、自分が産み落とされた環境において、そこから適切な判断規準を獲得しなければならないからなんですね。 ちょっと整理をすると申し上げておきながら、ツッコミを入れるような部分もありましたが、それというのもそうなのは、実は当初からなんですが、質問者さんのお考えがいちいち鋭く、思わず頷いてしまうような的を射たものばかりだからです。これには正直言って感服しました。回答に参加させて頂き、ご一緒にドツボにはまるだけの価値はあったと思います。

chongaa
質問者

補足

度々、申し訳ありません。 ご回答頂く度に、知りたい事が増えてしまい、ほどほどにとは思いつつ… 実は長文を書いたのですが字数制限で入りません。 そこで一点、「選択」という言葉について、私の勝手な解釈でお手間をとらせましたが、更に詳しく解説頂き、私の疑問点もより整理できたように思います。この点について補足させて頂きます。 >「反応特性」があるということは、入力がありさえすれば「反応する・しない」によって「0,1」の結果が生み出されるということです。ですから、反応特性というのは必然的に「選択性」というものを持っているということですよね。 確かに入力に対して、複数種類の結果が用意されているという意味では「選択性」なのだと思いますし、そういう意味では物質や無機物にも「選択性」があることは理解できます。そして、そうすると仰るように「反応」という言葉すべてに「選択」という意味が内包されていることになりますね。 ただ、「意志」という概念を付加すると少し違ってくると思うんです そしてこの「意志」という言葉の解釈について、少し齟齬があったように思います。 >右の道へ行くか左へ行くかもこのような演算によって処理され、決定された未来の結果以外の何物でもありません。生物の恣意的な活動とは生物学的な価値判断に基づく行動選択の動機です。我々はそれを「意志」と呼びます ということですよね。このことは私も理解したつもりです。 ただ「意志(意思)」の正体は確かに演算処理の結果かもしれませんが、「意志」という概念そのものは、「意志」が演算処理の結果であることが発見される以前から存在していますよね。また、現在も「意志」を演算処理の結果としてのニュアンスを込めて用いることは一般的ではないと思うんです。むしろ「意志」の正体が演算処理の結果であったとなった場合、現在的な用法での「意志」という概念は否定されてしまうように思えるんです。だって自分ではその都度迷ったり、決断したりしているつもりでも、それは錯覚(大脳皮質の無自覚?)で、実際はあらかじめ脳内で回答は決まっているんですから。 もともと物理や化学の世界で「意志」という言葉を用いることはあまりないと思います。そうであれば脳をただの物質として物理、化学的に論じるだけであれば「意志」という言葉は不要だと思うんです。他の例えば「恋愛感情」や「嫉妬」「喜び」というような言葉もそうかと思いますが、そういう人間的な言葉をあえて脳科学で持ち出す場合というのは、その漠然とした心の動きを意味する言葉を「対象」として実際の脳内の現象と関連付けて説明しようとする場合だと思うんです。そうであれば、研究・解明が進んだとしても、概念としては生きている訳ですから、その「対象」としての言葉の意味を変質させるのは正しくないんじゃないかと思えるんです。 そういう旧来的な(国語的な?)意味での「意志」を伴った「選択」には「選択の結果が事前に未決定」であることと、「そのものが主体的に選択する」ことが必要だと思うんです。 例えば、Aさんに対してBさんが「砂利道では右に、舗装路では左に進みなさい」と命令したとします。そうすると、Aさんは砂利道では右に進むでしょう。この場合、Aさんが右に進んだことについて「Aさんには選択権がなかった」あるいは「右に進んだのはAさんの意志ではない」「道の選択はBさんが行った」「Aさんが右に進むことは事前に決定していた」どの表現も間違いではないと思うんです。 そういう意味で私は「選択」に対して「意思の存在を前提に」という言葉を使いました。 もちろん、それは私の勝手な解釈で、科学の中での「選択性」についてはruehasさんから十分な回答を頂いて納得もしましたし、もちろん尊重も致します。 ただ私が使った「意思」の真意につき、ご説明した次第です。 そういう意味では「選択性」でなく、「不確定性」(それとて科学的に正しい用法かどうか分かりませんが)というような言葉が適切だったのかな?と思っています。 つまりは私が存在の有無を確認したかったのは「不確定要素」、例えば概念としての「意志」もそうですし、脳内・生命内に限らず、自然界のどこかに「完全な乱数計」的なものがあるとすればそれでもいいんですが、そういうものだと思います。あるいは今回言及頂いた「脈動」がそれにあたるんでしょうか?

  • ruehas
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回答No.4

こんにちは。 ANo.2、3です。 誠にお手数をお掛け致しました。 質問者さんは、たいへんきちんとした認識をお持ちだと思います。おかげさまで、回答すべき内容がひとつに絞られました。 >現在の生物学においては心と脳は一体のもの、或いは同じものと考えても差し支えないように思えます。 はい、その通りだと思います。 >しかし、少なくとも脳は純粋に物質ですよね。そうであれば物理や化学の法則や原則を逸脱した反応は起こらないはずですよね。 そうですね、正に質問者さんの仰る通りであります。ですから、我々の脳の営みは生理学的・解剖学的にきちんと説明されなければなりません。 >というより、物質である以上、厳密には反応に選択性があるとは思えません。 承知致しました、これですね。 結論から申し上げますと、我々の神経系で何らかの機能を持つ細胞集団には「選択的反応特性」というものがあります。もちろん、こんなことは専門に勉強したひとでなければほとんどご存知ないはずです。私は以前、たまたまそのような資料を読んだことがあります。そして、これがなければ脳は論理的な情報処理を行うことはできません。では、あとは「神経系の反応特性」とはいったいどのようなものであるかということですね。 神経系の情報処理とは信号が流れることによって行われるわけですから、まず「入力」がなければ何も始まりません。 何らかの入力を受けて興奮状態にある神経細胞には「神経インパルス」という電位信号が発生します。このインパルスが細胞体から外に伸びた軸策に伝わることを「細胞内(電位)伝達」といい、軸策末端から放出される神経伝達物質を介して他の細胞に興奮が受け渡されることを「細胞間(化学)伝達」といいますね。これと同様に、特定の機能を持つ細胞集団の信号が一挙に送信されるのであれば、それは情報の「組織間伝達」ということになります。 この細胞の興奮を「0,1」の信号に変えているのは「細胞間伝達」に用いられる神経伝達物質です。基本的には、「興奮性伝達物質」の投射を受けるならば細胞は興奮しますので信号は「1」、「抑制性伝達物質」を受容するならば「0」ということになるわけですが、入力される信号はひとつではなく、神経細胞といいますのは「興奮性結合」と「抑制性結合」の双方を取り混ぜて複数の細胞とシナプス結合しています。 信号が「0,1」に変わるのは、細胞が興奮するかしないかに「閾値」が設けられているからです。神経細胞に発生する電位信号は概ね「70mA(~100mA)」です。ですから、ひとつの興奮性入力が「5mA」としますならば、最低でも14個の入力が必要になります。まして、同時に抑制性信号の入力もあるわけですから、その「差し引き・総和」が70mAの閾値を超えない限り信号は伝達されないわけです。因みに「0」という信号を伝達するためには「抑制性伝達物質を放出する細胞」に興奮性信号が送られなければなりません。 このように、「0,1」の信号とは入力の結果として作られるものです。ですから、まずこの「70mAの閾値」が神経系の情報処理における「選択性の最小単位」ということになります。申し上げるまでもなく、この「0,1信号」が複数集まったものが情報です。そして、そのような並列信号に対して論理的な処理が成されるのは、細胞集団同士で行われる「情報の組織間伝達」において「選択的反応特性」というものが働くからです。 何らかの機能を持つ細胞集団はお互いが横同士の接続を持っており、同時入力される並列信号によって一斉に興奮状態になります。つまり、横同士の接続によってネットワークを形成する細胞集団は、特定の信号パターンには反応しますが、それ以外のものには反応を示さないということです。これが、並列信号に対する細胞集団の「選択的反応特性」です。 ですから、複数の細胞集団がそれぞれに自分の受け持ちのパターン対してだけ反応することによって、情報は段階的に処理されてゆきます。例えば、視覚情報を処理する「視覚野」には、色、形、傾きといった様々特徴に対して反応する細胞集団(コラム)が無数にあります。網膜にある受容体の反応パターンとして送られて来る「光のある無し」は、これによって篩いに掛けられます。「丸いパターン」に対しては「丸」を受け持つコラムしか反応しませんので、この結果が送られれば、脳は丸いものを見たと判断が下せるわけです。 視覚野におけるコラムの反応特性はかなり正確に調べられています。このコラムの接続は、基本的には生後の視覚学習が始まってから、つまり赤ちゃんの目が見えるようになってから強化されるものですが、どうやら、どのように接続が完成すれば良いのかというのは遺伝的に定められているようです。ですから、物や色がどのように見えるかは、恐らく人類共通の反応特性ということになるのではないかと思います。 混乱のないよう、もうひとつ余分な話を付け加えておきますと、反応の閾値や特性が遺伝的・生得的に定められておりますものは待った無しの「無条件反射」であり、これは本能行動に用いられるものです。そして、このような細胞集団の横の繋がりが「生後環境からの信号入力」によって形成・強化されてゆくことを「学習」といい、これによって後天的に獲得された特定の反応特性が「記憶」ということになります。 神経細胞同士は、最初は無作為に接続されており、何処にどのような信号が流されるかは分かりません。質問者さんの仰る通り、この時点ではそこには選択性というものはありません。では、ここに何らかのパターンを持つ並列信号が入力されますと、同時に興奮様態になった細胞同士の横の繋がりにも信号が流され、その結合が強化されます。これが繰り返されることによって、細胞集団は特定の反応特性を持つネットワークを形成することになります。そして、このような接続の強化を「シナプス結合の可塑的変化」といい、ここでは間違いなく物理的・化学的な変化が起きています。 では、細胞集団は全く同じ信号パターンにしか反応しないのかといいますならば、そうでもありません。現時点では記憶情報に限った話としてしかできませんが、類似するパターンや、ある程度の信号の欠落があったとしても、細かい違いには構わず反応が発生し、同様の信号伝達が再現されることを「手掛かり記憶」といいます。 我々は、いま実際に同じ体験が発生しなくとも、何かの切っ掛けで記憶の再生を行うことができます。これが可能なのは、そのネットワークが横の繋がりに対して互いに興奮性信号を出力しているからです。ですから、仮に幾つかの細胞に直接の入力がなかったとしましても、横からの信号によって一緒に反応をますので、結局元のパターンが再生されてしまうということですね。但し、記憶があいまいであるということはここに原因があります。コンピューターのように、異なる情報に対しては絶対に反応しないということでありますならば、我々が間違いを犯すことはないわけです。 同様に、ひとつの細胞集団の反応によって別の細胞集団が活性化するものは「連想記憶」の関係にあります。これが形成される条件は細胞集団と全く同じであり、特定の対象から特定のパターンが同時入力されるということです。あるいは、あとから思考によって論理的に繋ぎ合わせることもできます。従いまして、視覚と聴覚、このような全く別々の入力情報でありましても、条件が満たされるならば、それは同一の現象として関係付けられることになります。 視覚野のコラムにおける反応特性が備に解明されたのは、これが遺伝的性質のもので、全人類に共通であるからです。ところが、生後学習によって形成される反応特性というのは個人個人みんなバラバラですから、何がどのような機能を持つのかを特定するということはまずできません。つまり、脳の何処にどのような記憶があるのかを解剖学的に見つけ出すというのは不可能に近いわけですね。 ですが、大脳皮質は生後学習によって獲得された様々な反応特性を基に知覚情報を選別し、記憶情報を選び出しているということは間違いありません。認知や思考は、これによって実現します。同様に、情動反応という大脳辺縁系の価値判断は、「扁桃体」という神経核に学習・保持された「情動記憶」の反応特性に従って行われていることになります。 我々が生まれたとき、脳の大部分は白紙状態です。そして、「選択性」というのは生後の学習によってどんどん作られます。ですから、我々は様々なことに判断が下せるようになりますし、「ひとの心は十人十色」、個人の個性や好き嫌いなど、色々なタイプの脳が出来上がるわけですね。 さて、長くなって申し訳ありませんが、回答を送信しようとしましたら「ブラックボックス」という単語が目に止まってしまいました。これは難しい問題ですよね。 質問者さんのお考えにも示されています通り、この先、既存の化学反応や物理法則とは異なる、全く未知の情報伝達因子が脳内に発見される可能性はまずありませんよね。まだ分からないことが山ほどあるわけですから、それもブラックボックスと言えないこともありませんが、本当のブラックボックスとは、解明できないものを指すのではないでしょうか。そして、脳にはそれがあるような気がします。 例えば、脳の中にホムンクルスはいません。これは間違いのないことです。ところが、いないのにどうして見えるのか、何故理解することができるのか、こう尋ねられますと、はたと考えに行き詰まってしまいます。 話は変わりますが、ひとつの細胞が閾値を越えるのに20の入力を必要としますならば、1000の細胞で構成されるコラムが反応するためには、単純計算で1000×20^2の信号入力が行われることになります(計算合ってますかねえ)。 さて、ある数学の博士によりますと、このような情報処理がたったの二回、三回を超えるだけで、それは高等数学を以ってしても解くことのできない複雑な論理演算になってしまうのだそうです。私は算数が苦手なものですから、ちょっとイメージが湧きませんが、これが脳のあちらこちらで一瞬のうちに行われるというのですからたいへんなことです。果たして人類はこの先、そのメカニズムを解明することができるのでしょうか。 量的な問題だったらスーパー・コンピューターがある、楽観的過ぎますよね。スパコンを使っても何千年も掛かるような計算では堪ったものではありません。まして、脳のような複雑系には、それぞれの構成因子が持つ物理的・化学的性質とは異なり、無数の因子が集まることによって初めて発生する「集団としての性質」というものがあります。これが実現象に関与している限り、計算が解けても、その要因の方は永遠にブラックボックスということになるのかも知れません。 「システムがシステム自身の完全性を評価することはできない」としたのはゲーテル博士だったでしょうか。当てはまるかどうかは分かりませんが、これでゆきますと、人類の脳が人類自身の脳を知るということは、原理的にできないということになるのでしょうか。元も子もないですね。 余計なことは書かなければ良かったのですが、最後は支離滅裂でドツボにはまってしまいました。脳には、本当にブラックボックスというのがあるのかも知れません。ですが、人類が知り得ることはまだ山ほど残されているわけですから、当面の心配は無用ですよね。従来ならばブラックボックスとされていた部分にも果敢に挑戦し、目覚しい実績を上げているのが現在の脳科学です。私は、それがエキサイティングで堪りません。

chongaa
質問者

補足

お礼が遅くなり申し訳ありません。 私の稚拙な質問に根気良くお付き合い頂きありがとうございます。 ご説明頂きました選択的反応特性につき、私なりにとても理解が深まったと思います。 それで、選択的反応特性という言葉について思ったんですが、何故、「選択特性」とか「選択反応特性」ではなくて「選択『的』反応特性」なのか?それは「選択に見えるけど選択じゃない」反応特性だからではないでしょうか? 「選択」とは意思の存在を前提に、生物が行なう恣意的な活動のひとつを指す言葉だと思うんです。うまくいえませんが、例えばAさんが分かれ道で右に行こうか左に行こうか迷っているとき、「Aさんがどちらの道に行くかは未決定である」という前提で、「未決定のことがらを決定すること」、この場合では、道の左右を選ぶことが「選択」だと思うんです。 ご説明によると、選択的反応特性の場合、(複雑ではありますが)既得の反応特性と情報の種類によって事前に処理の内容も確定しているわけですよね。そもそも物質が時間の経過と共に反応しあって変化するのは当然であって、その工程が複雑になったとしても経時的な物質の変化を「選択」と呼ぶのは正確でないように思います。 ですから、脳を純粋に物質として論じる場合に、脳や脳の構成物質が「選択」を行なうことはあり得ないし、むしろ「選択的」という言葉は「擬似選択」であるという意味で使われているように思えるんです。 それともうひとつ感想なのですが、 >神経細胞同士は、最初は無作為に接続されており、何処にどのような信号が流されるかは分かりません。 >我々が生まれたとき、脳の大部分は白紙状態です。 このことはよく分かります。だから生まれた時の記憶は無い(あるかもしれないが再現できない)し、赤ちゃんは無防備なんですよね。 だけど、普通、無作為な接続に無作為な信号を流しても、無作為なまま接続状況が変わるだけのように思えるのですが…一見、無作為にみえる初期の細胞同士の接続にもなにか「仕掛け」があるように思えます。この疑問は遺伝子とかの問題になっていくのかもしれませんが、どこまで複雑なシステムなのか想像もつきませんね。 ただ、ただの物質である生物が「ただの物質」に見えない理由を突き詰めていくと、このシステム、言い換えると事前に用意されたプログラムみたいなものに帰結するように思えるんです。 そうはいっても、システム自体は勿論、生物ではないし、科学で説明のつかないものでもなくて、それがいかに複雑かとか、いつ、どうやって成立したかの謎はあっても、脳が純粋に物質であるという考えを支援する要素には違いないと思うんです。 逆に、脳の不思議の要因が、すべてシステムに集約してしまえるなら、システムの解明が進めば、理論的には(あくまで理論的には、ですが)人間の未来の言動や、行く末まで、惑星の軌道を計算するみたいに見通せてしまう、つまり哲学でいう「運命論」「決定論」が立証されてしまうのかなあとか思います。 そこまでいかなくても、脳科学がどんどん進歩してきている現状では、例えば魂の存在を信じる人にとっての拠り所は、本当にruehasさんの言う「脳の中にホムンクルスがいないこと」だけになってしまうのかなあ?とか思いまして…、そういう意味では苦し紛れに使ったブラックボックスという言葉を意図通りに解釈して頂けたように思います。 私はもうドツボにはまりっぱなしです。 でも、それも楽しいですね。

  • ruehas
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回答No.3

こんにちは。 ANo.2です。 回答をお読み頂き、ありがとうございます。 >具体的には脳内のどのような変化として発現するのでしょうか? そうですね、質問者さんがお知りになりたいのはこのようなことだとは思っていたのですが、神経系に発生する具体的な変化といいましても、捕らえ方によっては説明すべき内容が全く変わってしまいますので、いまいちこの辺りの判断が付きません。 ただ、中枢系の情報処理といいますのは知覚入力によって始まるものですが、これによって発生するのは新たな反応と、新たな信号伝達だけであり、脳内に何か特殊な現象が発現するというわけではありません。もちろん、脳の状態は活発になり、それまで働いていなかった部位にも反応が発生するわけですが、意思決定も感情も、また記憶の再現も、どれを取っても情報伝達の過程で生み出された反応でしかなく、この結果そのものは脳内に発生した特定の生理的変化に対応するという性質のものではありません。それが証拠に、何か違う知覚入力があれば、我々の注意は別のものに向けられていまい、気分もたちどころに変わってしまいます。これは、脳という同じ入れ物にそれまでとは違う信号が流れているということですよね。 このように、「具体的な変化の発現」と言われましても中々お答えのしようが見付かりません。もちろんこれではご不満でしょうから、もし宜しければ質問者さんのお知りになりたいことをもう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。 脳の覚醒状態の変化でしょうか 信号伝達の分岐経路でしょうか 記憶・学習以外には物理的・可塑的変化というのは無関係です もしかしたら意思決定の自覚についてかとも思っているのですが、違いますか? 補足要求を出します以上、分かる範囲で必ず協力をさせて頂きますので、お手数ですが宜しくお願いします。

chongaa
質問者

補足

丁寧なご返事ありがとうございます。 >質問者さんがお知りになりたいのはこのようなことだとは思っていたのですが 元々の私の質問に対しましては既に回答を頂いている、というか質問の前提そのものが不正確であったことをNo.2にて教示頂いたと思っています。 重ねての疑問点で恐縮なのですが、よろしくお願いします。 No.2のお礼欄で、「具体的には脳内のどのような変化として発現するのでしょうか?」と書きました点、この「変化として発現」という表現は、反応や信号伝達も含めた脳内の“動き”全般をイメージしていました。用語の用法が不正確ですみませんでした。 それで、ruehasさんからの回答を読ませて頂き、自分の考えを整理してみました。 人間の心の動きが、脳内のどのような働き、反応として投影されているのかは確かに興味はあります。しかし、本当に知りたいことを突き詰めると、少し違ったことになるように思います。 以下、素人考えです。おかしい点はご指摘お願いします。 現在の生物学においては心と脳は一体のもの、或いは同じものと考えても差し支えないように思えます。 しかし、少なくとも脳は純粋に物質ですよね。そうであれば物理や化学の法則や原則を逸脱した反応は起こらないはずですよね。というより、物質である以上、厳密には反応に選択性があるとは思えません。 だけど人間の心には物理も化学も関係ありませんよね。思考はあちこち飛ぶし、感情の起伏も不規則です。だからといって心と脳がシンクロしていないとは思いませんが、なにかブラックボックス的なものがあってしかるべきな気がするのですが…。 自分でも何を書いているのかよく分かりませんが、うまい質問が思いつかなかったので、疑問点を書かせてもらいました。 この辺りのことについて、何か示唆を頂けませんでしょうか?

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.2

こんにちは。 我々の身体の運動といいますのは、 「情報入力―中枢処理―運動出力」 というプロセスで行われます。 ですから、運動神経系に命令が出力されるためには、「知覚入力」や「記憶の想起」などとして発生する何らかの入力に対して「中枢系の情報処理」が行われる必要があります。この「中枢処理」のうち、我々が実際の行動を選択するために必ず行われなければならないのは「入力情報に対する価値判断」です。そして、本能行動を除くならば、それは「大脳辺縁系の情動反応」ということになります。 「意識行動」の場合には、「中枢処理」の過程で情報入力に対する大脳皮質の認知作業が行われます。ですが、「認知」とはそれが何であるかの判断を下すことですから、これだけではまだ何の行動も選択できません。では、何らかの行動が選択されるためには、このような認知結果を基に、「どうすれば良いのか」という「価値判断」の下される必要があります。ですから、運動神経系に命令が下される前に必ずや行われなければならないのは、この「中枢系における価値判断」ということになります。そして、「それをすべきである」「いや、これはやってはならない」、このような価値判断に伴う「行動選択の動機」を我々は「自分の意志」と呼びますが、この「価値判断」を行っているのは大脳皮質ではなく、「大脳辺縁系」というところになります。 入力情報が認知されるというのは状況の判断が下せるということであり、これにより我々は、「何をすればどうなるのか」「何もしなければどうなるのか」、このような「未来の結果」を予測することが可能になります。そして、大脳皮質「前運動野」ではこれに基づいて運動計画のプログラムが作られ、それは「一次運動野」から運動神経系へ出力されます。 ですが、これだけではまだ脳内に「自分の意志」、即ち「行動選択の動機」が発生したことにはなりません。状況判断が下され、運動計画が立てられたとしても、自分が「そうしたい!」と思わない限り、特定の行動が選択されたということにはなりませんよね。果たして、「未来の結果」がきちんと予測できたとしましても、それが自分にとって利益であるのか不利益であるのかに判断が下されなければ行動は実行に移されません。また、仮に運動命令が出力されたとしても、それには途中で「行動抑制」が掛けられてしまうことになります。そして、この大脳皮質が導き出した「未来の結果」に対し、「利益・不利益の価値判断」を下しているのが、我々の脳内で「情動反応」というものを司る「大脳辺縁系」であります。 「大脳辺縁系」には身体内外からの知覚情報が入力されており、大脳皮質の認知器官とも信号のやり取りがあります。ここではあらゆる情報に対して「利益・不利益の価値判断」が下され、「情動反応」が発生します。そして、「情動反応」といいますのは、価値判断に従い「快情動」と「不快情動」のどちらかとして発生するものであり、「快情動」に対しては「報酬行動(接近行動)」が選択され、「不快情動」には必ず「回避行動」が選択されるようになっています。 行動が実行されないということは、大脳皮質では立派な運動計画が立てられましても、大脳辺縁系に情動反応が発生し「やりたい・やりたくない」といった「行動の動機」が生み出されなければ、それが運動命令として出力されないということです。もしくは、何の利益もないという判断が下されるならば、このような無報酬刺激は「不快情動」として判定されますので、報酬行動(接近行動)ではなく、逆に「回避行動」の方が選択されてしまうことになります。ですから、大脳皮質が未来の結果を予測し、如何に高度な「計画行動」を立案しようとも、大脳辺縁系の情動反応がYESと首を縦に振らない限り、それが実行に移されるということはないというわけです。 では、「行動抑制」とはどのようなものかと申しますと、例えば「飛び降りろ!」という運動命令が下されても、ここからでは怖くてできないといったようなことであります。つまり、大脳皮質の運動命令に対して行動抑制を掛けているのは大脳辺縁系の情動反応に従う「恐怖」という感情であるということですね。これでは、行動は実行されません。この他にも、「不安」という情動反応は、基本的にはこの「行動抑制」のために発生するものであり、我々の脳は、まだ状況の判明しない不安状態では無闇な行動を選択しないようになっています。 このように、生得的な本能行動は除き、我々が日常に行なう行動の選択といいますものは、その全てが大脳辺縁系の情動反応によって最終的な決定が下されています。従いまして、右手を動かすという行動が選択されるためにまず必ず発生しなければならないのは、「知覚入力」や「記憶の想起」、あるいは「思考の結果」といった、何らかの情報を基にした「利益・不利益の価値判断」であり、それは「大脳辺縁系の情動反応」ということになります。 「意図する」というのは、脳内に情動が発生するということです。 「意思決定」といいますのは、あたかも大脳皮質が論理的な結果を導き出すことのように思われますが、実はそうではなく、大脳皮質のそれに対して大脳辺縁系の方にYES・NOの情動反応が発生したということなんですね。これにより初めて、我々は「報酬行動」か「回避行動」かのどちらかの実行が可能になります。ですから、大脳辺縁系の情動機能が何かの病気で損傷しますと、まさかとは思われるでしょうが、論理的な判断は下せても、一切の意思決定というものができなくなってしまいます。そして、これが我々の脳内に創られる「行動選択の動機」、即ち「意志」と呼ばれるものであり、意識・無意識に関わらず、未来の結果が自覚されているものを「計画行動(意識行動)」といい、情動反応に従って無意識のうちに選択されてしまうものを「情動行動」といいます。

chongaa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人間がものを考えたり、意思決定したりしているときには、脳のなかでもちゃんとそれに対応した変化が起こっているということですね。逆かな?脳のなかの変化が思考として顕在化するのかな? いずれにしても、養老猛さんの本のなかで「心は脳の機能である」というようなことが書いてあったと思いますが、そういうことなんでしょうね。 >大脳皮質の認知作業 >中枢系における価値判断 >、「何をすればどうなるのか」「何もしなければどうなるのか」、このような「未来の結果」を予測する >「未来の結果」に対し、「利益・不利益の価値判断」 >運動計画のプログラム このあたり、脳の働きを分かりやすく表現して頂いたのだと思いますが、具体的には脳内のどのような変化として発現するのでしょうか?

  • Damena
  • ベストアンサー率40% (17/42)
回答No.1

原因:右手を動かすことを意図する 結果:右手が動く 結果からたどることにします。 右手が動く、すなわち右前腕部が屈曲するためには、右上腕二頭筋が等張性収縮しなければならない。 右上腕二頭筋が等張性収縮するためには、筋皮神経から信号を伝達されたことになる。 筋皮神経は腕神経叢を経由して、脊髄の第7頸神経から伸びている 脊髄は、上位ニューロンである皮質脊髄路から信号を伝達される 皮質脊髄路を上にたどると、脊髄前角→錐体交叉→縦橋線維→大脳脚→内包→前頭葉の運動野 である。 前頭葉の運動野は、随意運動を司る、運動神経細胞が実体である。 つまり、皮質脊髄路は運動神経細胞の電気的興奮を伝導していることになる。 現代の生理学では、これ以上さかのぼることはできません。長くなりましたが、「で、随意運動って結局なんなの?」と聞かれたら、「なんだかよくわからないけど、大脳にある運動神経細胞が電気的に興奮するところから始まるんだよ。それ以上のことはよくわからない」と答えるしかなさそうです。

chongaa
質問者

お礼

ありがとうございます。 運動神経細胞の電気的な興奮までさかのぼれて、運動神経細胞が何に刺激を受けて興奮するのかは不明ということですね。 本には細胞ひとつひとつも生物であると書いていました。 そうであれば細胞にも意思とか本能みたいなものがあって、物理的な刺激がなくても、細胞自体が勝手に興奮することもあると考えるのは間違いなのでしょうか?

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