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古典の文

いつもお世話になっています(*^_^*) 中学3年生の受験生です。私は古典が大の苦手です。   花山院 右大臣、 或る夜の夢に、 摩利支天 枕上 に立ちたまひて、「汝 司 位は高けれども宝には貧し。もし我を祭らば、七珍万宝心のままなるべし。」と正しき告げ有りしを、大臣は何とも思ひたらで居たまひしに、三夜まで打ち続きて同じ様に見えければ、親しきあたりにかくと物語られしかば、人々有り難き事に思ひて、「疾とく祭りたまへかし。」といひければ、 「いやとよ、朝に仕へる身は、清きを願ひて貧しきを厭はず。」 とて、 つひに祭りたまはざりしとぞ。 〈『落栗 物語』による〉 〔注〕 花山院右大臣=花山院という右大臣    摩利支天=当時信仰されていた神 枕上=枕もと   司位=官職と位   正しき=はっきりした あたり=人たち   いざ疾く=さあすぐに   いやとよ=とんでもない  朝=朝廷 という文なのですが、難しくこまってしまいました(*>_<*) 一様、辞書で調べて訳してみました。 花山院という右大臣、ある夜の夢に摩利支天が枕上に立っていて「おまえ、官職と位は高いが宝には乏しい。もし私を祭れば、あらゆる宝の心のままになるそうだ。」とはっきりした告げが有り大臣は何とも思ったりで居て三夜まで続けて同じように見えれば、人々は摩利支天のお告げが三夜も続いたことを、めったにない尊いことだと思って、 「さあすぐに祭れよ」といえば「とんでもない、朝廷に仕える者は身を清くして貧しさなどは気にしないものだ。」と言ってついに祭らなかったそうだ。 と辞書などで調べて訳してみましたが、難しかったです(>_<)どこか間違っているところなどご指摘くだされば幸いです。 よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
回答No.2

古典の訳は大変ですよね^^; よく調べられているので大筋は合っていますね♪ 少々不足している部分を補わせていただきますね。 ・立ちたまひて ×立っていて ○立っていらっしゃって   ※「たまひ」は尊敬表現 ・七珍万宝心のままなるべし ×あらゆる宝の心のままになるそうだ ○あらゆる宝が思い通りに手に入るだろう   ※「べし」は「~だろう」 ・有りしを ×あり ○有ったのを   ※「し」は「き」の連体形で「~だった」 ・何とも思ひたらで居たまひしに ×何とも思ったりで居て ○何とも思わないでいらっしゃったところ   ※「で」は打消しの「ず」と「て」が合わさった打消しの接続助詞 ・親しきあたりにかくと物語られしかば ○親しい人たちにこのようにお語りになられたところ   ※「れ」は尊敬、「しか」は「き」の已然形で過去、「ば」は已然形につくと「~したところ」 ・疾とく祭りたまへかし ×さあすぐに祭れよ ○さあすぐにお祭りなさいませ   ※「たまへ」は尊敬、「かし」は「~しましょうよ」 目立つ誤訳としては、「たまふ」の訳し忘れでした。 語り手から見て、大臣は偉い人なので大臣の言動を尊敬表現で語っています。 あとは、過去をあらわし「き、し、しか」もポイントですね♪

asamitan
質問者

お礼

ありがとうございました♪ とっても感謝です。

その他の回答 (1)

  • fitzandnao
  • ベストアンサー率18% (393/2177)
回答No.1

花山院という右大臣、ある夜の夢に摩利支天が枕上に*お立ちになり、「*そなたは官職と位は高いが宝には乏しい。もし私を祭れば、あらゆる宝*が心のままになる*ぞよ。」とはっきりした*お告げが有ったのを、大臣は何とも**思わずに*居らっしゃっていたところ、三夜まで続けて同じように*(お告げが)**見えたので、*親しい人々にお話に**なったところ、人々はめったにない尊いことだと思って、「さあすぐに*お祭りになられよ」と*言ったところ、「とんでもない、朝廷に仕える者は身を清くして貧しさなどは気にしないものだ。」と言って、ついに*お祭りにならなかったそうだ。 **は自信ないです。*は変えたところ。特別に勉強したわけではないので。参考までに。 古典のばあい、尊敬語などが多用されますが、そのあたりきちんとおさえたほうがいいですよ。

asamitan
質問者

お礼

ありがとうございました

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