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桶狭間の戦いについて

織田軍は、今川軍に奇襲戦法で勝ちました。でも、これは大変危険な賭けでした。そこで思うのですが、上洛する今川軍を黙って見過ごすという選択肢はなぜ取られなかったのですか。そうするとどんな不都合があったのですか。たとえば、領主として家臣や領民に対してしめしがつかないとか、でしょうか。?

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  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.6

桶狭間の戦いは、織田家が大高城を兵糧攻めしたことから始まりました。 今川の目標は優先順に 1.大高城救援(大高城兵糧入れ、鷲津砦・丸根砦攻略) 2.織田家を滅ぼす 3.尾張制圧 と、なっていたかと思われます。 今川義元が上洛を準備した形跡は、自分の知る限り皆無です。 なお、戦国大名の権力は地方地方の有力者(国人)への安全保障に由来しており、領内への侵入を見過ごせば国人が離反します。実際、織田信長の美濃攻めにおいて、度重なる侵攻に音を上げた斎藤側は、織田軍が去るまで兵を出さないようになりましたが、これが原因で、家臣が大量に寝返り、美濃を追われる結果となりました。

kokutetsu
質問者

お礼

戦国大名の地位というのは、国人たちの信頼と支持をいかに勝ち取るかという危ういバランスの上になりたっていて、ヨーロッパの絶対王政とは異質であると聞いたことがあります。ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • phantom1
  • ベストアンサー率24% (184/748)
回答No.5

最近の研究では、桶狭間の戦いは奇襲ではなく強襲であったとする説が有力ですよ。この時期織田信長は既に家督相続当初の尾張下四郡に加え、上四郡の制圧も完了しており、一万数千人の動員兵力を持っている筈で、二千人などという少数であるはずが無いとする意見もあります。信長公記に見られる二千名の数字は信長が家督を継いだ直後の物であり、明らかに間違いです。今川軍が織田方の支城の攻略で兵力を分散し、外線作戦線を形成している内に、織田軍は内線作戦線の利を利用して今川軍の中枢部に決定的な打撃を加えた、と言うのが桶狭間の戦いの真相のようです。要するに信長には今川軍と互角に戦う力があった訳で、運良く成功した奇襲でも僥倖でも無かったのです。信長の性格からして、今川の軍門に下る理由は無いでしょう。

kokutetsu
質問者

お礼

義経もそうですが、ヒーローとなる大将には、やはり少数で大軍を破った、という逸話が必要ですね。信長が好きだという人には、桶狭間の奇襲が魅力になっているので、それが奇襲ではなかったとすると、敦盛の舞もしらけてみえます。ありがとうございました。

  • m41
  • ベストアンサー率30% (346/1127)
回答No.4

武装した他国軍隊を黙って自国の通過を見過ごす???? 古今東西そんな国は有り得ないと思います 考えてみてください北朝鮮が台湾を攻めるのに海路を取る為に日本を武装軍隊で通過するとしたら 許した政治家は狂気の沙汰です。 アメリカが通過するならありかも知れません 当時も属国や軍事協定を結んだ国の通過は有り得たでしょうが大国今川軍を通すと言う事は小国の織田軍にとっては属国に成る事を認める事に他ならないと思います。 また軍隊の移動時は兵糧その他は基本的には現地調達が普通ですから当然通過過程の村々は貢物を差し出さなくては成りません 拒否すれば殺される時代ですよ  自国の領民をそんな危険に晒す情けない領主は領主とは呼ばれないでしょう。服従か玉砕か信長は玉砕覚悟の反抗を選んだそれだけではないでしょうか。

kokutetsu
質問者

お礼

アメリカ軍基地が各所にあり、島々をロシア、韓国にとられ、上空を北朝鮮のミサイルが飛んでいくという日本に住んでいる私は、やはり平和ボケしているのでしょう。

  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.3

こんにちは。 当時、織田家臣団は崩壊状態で、今川を始め、他の領主に内通する者が多数いる状態だったので、黙って見過ごすと、自分の家来に首を取られて今川義元への土産にされる危険すらあったからです。 出陣の直前まで誰にも奇襲を告げずに突如出撃したのも、内通する家臣に情報を伝える暇を与えない為です。

kokutetsu
質問者

お礼

内通させる時間を与えない、というのも機敏な行動の裏にあったとは。そのような危機にそこまで頭が回るとは、信長恐るべし。ありがとうございました。

noname#113190
noname#113190
回答No.2

今川義元の目的は、尾張の併呑にあり、上洛はその後の目的であると言われています。 上洛するつもりなら、美濃の斉藤氏を始め、京に向かう道筋の大名たちに何らかの裏工作があってもよいのですけど、無かったところを見れば、うまくいけば織田氏を滅ぼして尾張を併呑、うまくいかなくても現在の名古屋市くらいまでは勢力を広げられるという目論見だったと思います。 従って、抵抗しなければ尾張東部の城は全て今川の勢力下に入り、織田氏は徐々に衰亡していきます。 清洲にこもって築城戦を挑むということも考えられますけど、この場合はどこからか援軍が来ることをあてにしなくてはならず、常識的には美濃の斉藤氏ですが、これでは今川を追い払った後、尾張は斉藤氏の影響下に置かれてしまいます。 諸般の状況を考えれば、死中に活を求めるしかないと考えます。

kokutetsu
質問者

お礼

時代劇では、たいてい義元は都志向が強く、上洛してミヤビな暮らしをしたいと思ってる人、と描かれているのですが。そうではなかったのですね。ありがとうございました。

回答No.1

「今川の軍勢は素通りしません」というのが回答です。 戦国時代ですから、 ・通過した地域は自分の領地とし、戦力になりそうな人間は徴発する ・徴発された人間は「もっとも危険な最前線に投入」される ・以前から敵対的だった尾張の人間(織田家家来を含む人間)を許す(見逃す)理由が無い ・当時は敵対勢力の人間を捕虜にすると奴隷として他国(国内も国外も)に売っていた(相当数の人間が売り買いされていた記録があります) 以上のことからも織田家は「何らかの形で」戦う必要があったのです。

kokutetsu
質問者

お礼

捕虜になると奴隷として売られてしまうとは、恐ろしい時代でした。ご回答ありがとうございます。

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