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藤田東湖と尊皇攘夷論について

jazzdancerの回答

回答No.1

大学の論文と比べると月とすっぽんであまりに恥ずかしいのですが、ちょっと興味があってカキコしました。 藤田東湖は佐幕派、尊攘派問わず若い志士たちから尊敬され慕われていたようですね。 私の勝手な推測ですが、キーワードは「回天詩史」だと思います。 幕末頃詩吟をたしなむ武士は多かったようです。なかでも「三度死を決してしかして死せず 二十五回刀水を渡る・・」で始まる「回天詩史」は若き武士たちが武士たらんがための心の拠りどころになったに違いないと思っています。 尊皇攘夷の急先鋒であった水戸藩の硯学者藤田東湖の影響力は、「回天詩史」が尊攘派の武士の間でベストセラーのごとく読まれたことからも窺えます。 第二次世界大戦への影響というのは解りませんが、水戸藩主徳川斉昭の参謀であった藤田東湖が安政の大地震で亡くなってから、水戸藩が悲劇の一途をたどったのをみても、その防衛や外交の政策立案能力が際立っていたからかと思います。 手塚治虫「陽だまりの樹」に藤田東湖の人となり、をあらわすエピソードが描かれています。ご参考までに。

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