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将軍様は暇?

starfloraの回答

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  • starflora
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回答No.6

    将軍はどういう仕事をしていたかというのは、江戸時代でも、時期によってかなり違い、将軍ごとでもかなり異なるはずです。     問題にしているのは、英明と評された八代将軍吉宗のことらしいですから、吉宗の時代あたりの話です。     江戸幕府時代も、安定して来ると、一方で、幕府創設当時の社会ではなくなる、つまり社会構造が変化して来て、米の生産と、農民よりの米の収奪で成り立っていた幕藩体制の基本経済基盤がおかしくなって来るのです。戦国時代が終わって、太平の世が訪れると、幕藩体制で、封建制度にして、藩単位に分離して見ても、平和のなかで、商業や、技術が発達して行き、生活も、食べることができればよい、というかつかつの時代から、余剰生産ができて、余裕のある生活、楽しめる生活というのも、決して夢ではなくなって来たとも云えるのです。     武士階級は、厳しい道徳と、自他ともへの禁欲的な生き方で、支配階級であることが維持できたのですが、江戸中期になってくると、太平の世のなかで、厳しい道徳も緩んで来、禁欲的な生き方も、藩地元の何もないような処では、まだ維持できても、江戸や大坂、京など、商人階層が活躍して、様々な快適な生活用品や、贅沢な物品が豊かになった場所では、武士の生活も、引きずられて、快適な、非禁欲的なものに段々となって行ったということが云えます。     この傾向は、藩の地元にも影響し、全国的に、武士に限らず、江戸時代の住民の生活は、豊かに快適なものへと変化して行ったのです。しかし、武士の生活基盤は、米の収穫を農民から収奪することで、米の生産性を上げると言う方法で、何とか、収入を幾分増やせたとしても、世のなかの経済の発展、「豊かさの標準指標の高まり」に、このような生産増大策は、追いつかなかったのです。その結果、武士階級の経済的困窮と破綻が、早くも、元禄時代、五代将軍綱吉の時代には訪れるのです。     六代将軍は、新井白石を登用して、幕府体制・経済体制の立て直しを計画するのですが、白石では、考えが古く、とても新しい時代情勢に対応できず、七代将軍は、子ども時代に夭折し、そこで、次の将軍は、ということで、尾張家と紀伊家で、将軍後継を争ったのですが、紀伊藩主吉宗は名君の噂高く、紀州藩の財政を、米以外に、桐だとかみかんだとか、色々な特産物の換金商品を造ることで立て直し(無論、米栽培のための新田開発も行い)、彼こそは、徳川幕府の危難を救ってくれる将軍だというので、当然なように彼が将軍位を継いだのです。     五代将軍綱吉の時代に、微禄から成り上がって、お側衆筆頭、将軍側用人の地位に就いた柳沢吉保を苦々しく思っていた、譜代の有力大名・大身旗本たちは、六代将軍も置いて重用した側用人を置くことをしないよう、吉宗に求め、吉宗は、これに同意するのです。しかし、吉宗は、それでも「御用取り次ぎ役」は置きます。側近がいなくては、無能な将軍も、有能な将軍も、まともな政治ではできないからです。     つまり、古き武士の誇りだとか、譜代の名家とかいう世襲的な肩書きを絶対視する幕府の有力大名や旗本たちにとって、彼らが有能であるかないかではなく、「家柄が良いか悪いか」で、幕府内の地位が決まり、役目や肩書も分配されるというのが理想だったのですが、そんな悠長な、時代錯誤の復古政策など、取れる状況でないことを吉宗は自覚していたのです。     前置きが長いですが、奥を持つ中級旗本、数千石の、大名と同等の力を持つ大身旗本、大名、大大名などの「殿様」の生活は、まず、形式と儀式や儀礼に縛られたものだったということです。旗本の殿様も、400石を越えると、隠居でもしないと、勝手に、江戸市内に出歩くこともできない、という状況でした。「身分格式」に応じた行動が求められた訳で、殿様というと、ともかく、儀式をこなし、家来には平等に対し、自己は禁欲で、みずから、武士の範を示さねばならないという難しい役割でした。江戸中期では、幕府の大名取りつぶし政策は、変更されていますが、しかし、やはり、規律を乱す大名は、転封、またお家お取りつぶしで、旗本にせよ、大名にせよ、殿様は、ともかく厳しい生活が求められたのです。     大身旗本、大名の殿様は、ともかく、身を慎んでもらわないと、家が潰れるので、危ない人物は、殿様にしないように暗殺するとか、危ない殿様は、早く隠居してもらうとか、家来の方で色々動いて、殿様も、気ままに殿様業をやっていられた訳ではないというのは、ほぼすべての殿様に共通した義務のようなものです。     将軍はでは、どうだったかと言うと、普通の大名の殿様以上に、厄介な、義務が多かったはずです。五代綱吉は、悪く言われていますが、人物としては、なかなか英邁な君主で、みずから儒学を家来に教授するなど、並の殿様ではなかったのです。「生類憐れみの令」も単なる悪法ではなく、深い目的があったという説も最近出ています。柳沢吉保も、商品経済が展開し、いかに商人をうまく操るかで、幕府経済の命運が決まるというところで、出現するべき出現した人材だとも云えるのです。     六代将軍も、側近に当時智慧一番とされた新井白石を置き、改革をしようとして、病気で途中倒れたのであり、英明であったと云えます。そして八代吉宗になると、これは、どうも、彼を紀州藩主にしようという勢力があって、彼の兄たちを暗殺し、更に、将軍位が目前にあると、ここに彼を就かせようと、暗躍する勢力があったらしく、身分の低い女から生まれた紀州藩主の三男は、その英明さで、期待され、紀州藩主に昇り、更に、幕府将軍にまでなったとも云えるのです。     彼は、家康を超える、親政将軍で、独裁将軍であり、何でも知っていたと言うのは極論ですが、ともかく、実学に通じ、政治経済に通じ、学問に秀で、武道を好み、みずからも、相当な武芸を持ち、極端に言うと、何でも一人でやった将軍だとも云えます。江戸中期の将軍は、「お側衆」という役目の譜代大名や大身旗本が、将軍側近として控え、表向きの政務を司る、老中・若年寄などの政策に対し、将軍に献策したり、意見したりしたのですが、(従って、将軍の手に負えない問題でも、身近にブレーンをおいているので、老中や若年寄の言うままにはならなかったのです)、吉宗の場合、ブレーンよりも、彼の方が、政治経済に詳しく、陰謀も得意なため、おそらく、「お側衆」がやったことは、全部、自分で処理したと思えます。     諸国の事情や、大名・旗本の内情などを的確に知るため、情報源として、全国至る所に、スパイ組織を作り直したのは吉宗ですし(というか、情報を知らないと、何もできないというのは、彼が紀州藩主の頃から知悉していたことでしょう)、全国のスパイを統括する者(これは、御用取り次ぎ役の一人だったはずです)の報告を受けて判断するのは彼自身であった訳で、たいへんな毎日だったろうと思います。     裏の謀略で、大活躍し、表では、将軍として身分相応の儀式を行い、老中たちと協議し、学者ブレーンや彼が抜擢したブレーン(つまり、例えば、大岡越前。彼は、町奉行というより、吉宗の政策ブレーンだったのです)の意見を聞き、五人分か十人分の将軍の活動をしていたのでしょう。     吉宗は、少々将軍としては、器が大きすぎたとも云えます(非常に器の大きな人物を、推進勢力が陰謀で、紀州太守にし、更に将軍位にまで就けたので、大きいのが当然なのかも知れませんが。武士階級の経済的危機が訪れるなか、紀州家財政建て直しのため、英明な人物を、どうも上を排除して立てた所、将軍位まで転がり込んで来たということでしょう)。     吉宗なら、あるいは、側近に命じて、本当に江戸城を抜け出し、江戸市中をその眼で見るため、ひそかに、変装して、江戸市中に出ていたかも知れません。(いままで、そんなことは考えたことがなかったのですが、考えてみると、元々、紀州家の三男として、町中を歩くことなど、平気であった吉宗ですから、江戸城育ちの歴代将軍と発想が違い、十分に安全を確認した上で、江戸市中に視察に出た可能性があると今思いつきました。「格式」など、守っている所を見せればよいので、暗殺の危険が十分回避できるなら、江戸市中に出ることを吉宗は躊躇しなかったようにも思えてきます。ただ「暗殺の危険」が、いま思っている以上に高かった可能性があります)。     吉宗の子は、どうも言語障害か、または頭が相当遅れていたらしく、どういう人物であったのか不明です(普通程度の頭があれば、従順な性格なら、本人ではなく、側近が優れていれば、英明な君主になります)。第十代将軍は家治のはずですが、この将軍は英明な殿様だったようです。田沼意次を重用したのですが、これも微禄から成り上がった田沼は、相当な人物であったようで(柳沢よりは、数段人物が上でしょう)、綱吉の夜の寵童出身の柳沢に較べ、田沼は、実力でお側側用人・老中に登り詰めた人物ですから、そういう田沼を抜擢した家治も名君だったのでしょう。     少なくとも、綱吉、吉宗、家治たちは、面倒な格式に応じた儀式を毎日こなし、窮屈な儀礼のなかで、決済を迫られる政務が幾らでもあり、老中や、側用人などに任せれば、それで楽になるでしょうが、任せっぱなしでは、問題で、側用人は、自分の側近なので、江戸城内の雰囲気を見て、適宜に、信任しているところを示さねばならず、慣例の山のなかで何か新しい事をするには、相当な気力が必要で、もの凄く精力的に、毎日を過ごしたということでしょう(これは、やることは違っても、大抵の、大名・旗本の殿様も同じであったでしょう)。     という訳で、将軍も殿様も、馬鹿や怠け者ではやっていられなかったということです。まともに将軍の仕事をしようとすると、決済しなければならないことが何か分かっていなければならない訳で、政治や経済の実務に通じている必要もあれば、儀礼や武道にも通じ、儒学にも通じていなければならず、更に、側近は守らねばならない、家来は平等に扱わねばならない、人事をどうするかで、思い悩むと、夜も眠れなかったでしょう。だから、タフな将軍だけが、名を残しているのでしょう。六代将軍などは、将軍にならなければ、もっと長生きしていたかも知れず、吉宗も、紀州藩主のままなら、八十ぐらいまで長生きしたかも知れません。   

toppo2002
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございました。吉宗は優秀だったんですね。江戸時代でも実力ある人が上に上がる例もあったんですね。吉宗の場合は特別だったんでしょうけど。それにしても藩主にするために兄が殺されるとは世の中のためとはいえむごいような。 私のイメージはTVのものですけど実際の将軍様はすごい優秀だったんですね。もしお忍びで町をうろついていたとしたらただおもしろいからだけではなくて国のことを考えているのですね。たしかに下々のことがわからなければ何も始まりませんしね。ひょっとして本当に悪人退治をしていたらおもしろいですけどそんなわけないですよね。

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