• ベストアンサー

多分聖書に載っているのではないかと思うのですが…

「主よ、変えられないものを受け入れる勇気と、変えられるものを変える勇気、それを見分ける叡智を~」 この言葉を私はある所で聞きました。とてもいい言葉だと思い、その前後の文が知りたくてメモしておいたのですが、出典を聞きそびれてしまいました。 多分聖書あたりに載ってそうだとは思うのですが、あの膨大な文の中でコレだけを頼りに探すのは至難の技です。 どなたか、これはどこに載っていた言葉だとご存知の方がいらしたら教えて下さい。又は、ここへ行くとこういう言葉を検索できるというような場所でも構いません。

  • otona
  • お礼率83% (36/43)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • harapon
  • ベストアンサー率44% (47/106)
回答No.4

こんにちは、otonaさん。 上記の言葉ですが、いい言葉ですね。 調べてみたところ、どうやら聖書ではない?ようです。 アメリカの神学者、ラインホールド・ニーバーが教会で説教したときの祈りが出典のようです。 いくつかサイトを記入しておきますので、ご参考ください。 http://www.m-net.ne.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm http://www.pauline.or.jp/oinori/rein.html

otona
質問者

お礼

ありがとうごさいます!参考になりました!!

その他の回答 (4)

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.5

  これは、アメリカの神学者、Reinhold Neibuhr(ラインホールド・ニーバー)が 説教の時に述べた言葉が元になっており、Alcoholics Anonymous(米国アルコ-ル中 毒患者更生会[禁酒団体])が、組織の標語として取り上げ、その後、大量に印刷さ れて有名になったもので、英語で、Serenity Prayer(「平静の祈り」でしょうか) と言います(Sailor Moon が祈っている祈りではないようです)。以下のURLに英 文での全文が出ています:   >http://recovery.hiwaay.net/jtr/serenity.html     ただ、上のURLでも「起源問題」に触れられているのですが、ニーバーが説教 で使う前から、この形の祈りはあったのであり、ニーバーは、引用したのだという説 があります。ニーバー自身もそれを認めているとも言われています。彼は、18世紀 の神学者 Friedrich Oetinger(フルードリッヒ・エーティンガー)から、この祈り の起源を得たという説があります。     以下のURLは、アルコール禁酒会のページですが、ここでは、この「平静の祈 り」の起源について、もっと大胆なことが述べられていて、ニーバーは、「こういう 祈りの言葉が何年、何世紀も前から使われていたのかも知れないが、わたしはそうは 考えない。わたしは説教の時、自分で考えた言葉を祈ったのだ」と述べたとも言って います。     この祈りの言葉の起源として、古代ギリシアの詩だとか、イギリスの無名詩人の 作品、アメリカの海軍士官の作、更に、ソクラテス、アリストテレス、聖アウグス ティヌス、聖トマス・アクィナス、スピノザ、あるいはキケロの言葉の訳だという説 まであって、有名人はみな作者のようです。   >http://www.aahistory.com/prayer.html     ただ、云えることは、フル・ヴァージョン形を述べたのは、ラインホールド・ ニーバーでしょうが、これに類似した句や表現はおそらく古くからあったのだろうと いうことです。イエズスの言葉(「ゲッセマネの祈り」にも、これに似た表現があり ます。ギリシア語の言葉を英語に訳す時、意訳すると、ニーバーの言葉のようなもの になる可能性が高いです。それにニーバーが、言葉を付け加えて説教の祈りにしたの だとも考えられます。ニーバー本人は意識していなくともです)。     なお、日本語の訳文は他の人が提示していますので、英語での元の原文全体の ページを紹介します。最初の参考URLがそうです。

参考URL:
http://recovery.hiwaay.net/jtr/serenity.html,http://www.aahistory.com/prayer.html
otona
質問者

お礼

詳しい説明、ありがとうごさいました!!

  • jun1038
  • ベストアンサー率49% (138/278)
回答No.3

こんにちは。 いくつかのキーワードで検索をかけたら、ヒットしました。 (例えば参考URL) 聖書ではなくて、アメリカの神学者の言葉のようですね。 受け入れる  勇気  見分ける  英知 くらいで、 検索してみて下さい。 では。

参考URL:
http://www.heiwa.aletheia.ac.jp/57-CCW-212.htm
otona
質問者

お礼

ありがとうごさいます。そうですね、今度からそうやって検索かけてみます。

  • a-kuma
  • ベストアンサー率50% (1122/2211)
回答No.2

「ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉」が出典らしいですよ。 参考URLをどうぞ。

参考URL:
http://www.seig.ac.jp/edu/inori.htm
otona
質問者

お礼

ありがとうごさいます!!

  • furuichi9
  • ベストアンサー率26% (80/303)
回答No.1

ラインホールド・ニーバー 詩「変革の祈り」 文章表現自体は私の知っているものと似ているのですが・・・

otona
質問者

お礼

ありがとうごさいます!!

関連するQ&A

  • たしか聖書の言葉だと思うのですが、「○○において・

    たしか聖書の言葉だと思うのですが、 組織や仲間の関係をいう ○○において自由 や ○○において平等 や 行動において○○  などの文を以前どこかで聞きました。 これだけの文があればと検索しましたが、探しきれませんでした。 このような言葉をご存知のかたいらっしゃいましたら、教えてください。

  • 海外小説を読むのにおすすめの聖書

    海外小説にはたくさんの聖書の言葉が引用されています。 中には()で出典を書いてある翻訳もあるので、元になった箇所の前後を読んでみたいと思う時があるのですが、おすすめの聖書はどれでしょうか? 数年前に「詩編付き新約聖書」を買ったのですが、これには入っていない項目(雅歌とか哀歌のように、おそらく旧約の方?)もあります。 ちょっと調べてみたのですが、聖書(特に旧約聖書)はいろいろな宗教や宗派によってたくさんの種類があるようです。 自分の楽しみで日本語に翻訳された小説を読んでいるだけです。 原書を読んだり、その作品の研究をしようというわけではありません。 こんな場合に都合のいい聖書を教えてください。

  • 正義は(必ず)勝つ

    この言葉は、当たり前のように覚えてきていますが、いざ、調べようとして検索しても意味も出典もわかりません。 意味は文字通りだと想像します。 じゃ、負けたら悪なのかという議論はあるのでしょうが・・・ 今回は、この言葉の出典を知りたく思い質問しました。 もしかして聖書とかでしょうか? それとも、昔の映画や漫画のセリフなのでしょうか・・・

  • 出典を教えてください。

    昔仕事でお会いした方が言っていた言葉で、 「語る者は水を描き、聞く者は石を刻む」 というものがありました。メモはとっていたものの、その意味や出典まで書いておらず、また、キーワードで検索しても見つからず、困っております。 近日中に、またこの方とお会いするので、明日にでも書店でことわざ辞典あたりを調べてみようかなと思っておりますが、もしこの言葉の意味・出典、またはそのヒントになるような情報をお持ちでしたら教えていただけないでしょうか。 よろしくお願い致します。

  • 「PDF」の検索

    googleとかで「PDF」を検索すると、ファイル形式がPDFのものまで膨大に検索されます。これを避けて、文章の中の「PDF」という言葉だけを検索する技を教えて下さい。

  • Pro Deo et Patria について

    初めて投稿いたします。よろしくお願いいたします。 立教大学で理念ともなっている言葉 Pro Deo et Patria というものの出典を探しています。 検索すると様々な場所で使われていることがわかりましたが、元々聖書やその他の文献の何から来ているのかがわかりません。 ご存知の方がいらっしゃいましたら、どうかお教え下さい。 よろしくお願い致します。

  • 「老い」に関する格言の出典を教えてください。

    「老い」に関するこの格言の出典を教えてください。 「人間は老年期に入ると最早生きているとは言えず、生前の精力的で自律的だった自分が忘れられずにこの世にさ迷う亡霊のようだ」 正直前向きな格言でないのでわざわざ新たに質問しなくとも、とここで検索も掛けてみたのですが、老いに対して肯定的か、「だから若いうちに努力しなさい」的なものばかりであまり参考になりませんでした。 正直上記の格言も昔のうろ覚えなのですが、高校の現代文の問題文で孫引きされていたものなので有名な出典がちゃんとあると思います。 外国の偉人の格言だと翻訳の時点でニュアンスも簡単に変わるそうなので、「似たような言葉知ってるよ」でいいから(ただ、できれば孫引きでなく原典で)教えてください。 また、老いに対して「人間一生若い」とか「老いてからでも何でもできる」みたいに妙にポジティブな格言や、「すぐ老いるから若いうちに努力しなさい」的なもの以外の格言なんかがあれば(自分で作ったとかでなく出典があるもので)それも教えてください。

  • 訳を教えてください(急いでいます)

    On it! という短いフレーズがわかりません。 口語っぽいのですが…。 オンライン翻訳だと「その上に」としか出ません。 (エキサイトだけ「それに関して」) 英英辞書等調べたのですが、ふさわしいものを見つけるどころか 説明文が難しくて読めませんでした。 検索自体「on」や「it」はあまり拾ってくれないため、結果が膨大になるだけでした。下手に絞り込みをすると、そちらの言葉に引っ張られてしまって… 辞書にもありませんし、「それに関して」で合っていれば問題ないのですが どなたか教えてください!

  • 「おんのじょう」という言葉の存在について

    昔、親とかがたまに使っていた(と思う)言葉ですが、最近思い出して、正確にはどんな意味か、出典などがあるのかと気にかかったので、 調べたのですが、ネットにも、Weblioや広辞苑無料検索にも見当たりませんでした。 あたかも、こんな言葉は存在しないかのような感じです。 ということは、私の記憶違いなのかとも思うのですが。 こういう言葉、または私の間違いなら正しい言葉をご存知の方がいらっしゃったら、 知っている、ということだけでも結構ですので教えてください。 漢字表記はわかりませんが、私が考えている意味からして、たぶん「御の上」または「乙の上」あたりかな思います。 その意味は、 「それだけの結果が得られたなら期待以上じゃないか、「御」を付けてありがたいと思え(それ以上不満を言うことはない)」 という意味だと思っています。 よろしくお願いいたします。

  • 聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。

     (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。  (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。  (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。  (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。  (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。  (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。  ▲ (創世記1:1)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001  ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃  ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)  ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)  ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.  ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。  (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。    ○ bara'  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV  (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。  (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。  (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。  (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。  (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。  (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。  (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。  ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~     はじめに ことば(ロゴス)があった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。  (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。  (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?