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院政って
gokuh_の回答
こんにちは。capppuさん。 どんな組織にも決まりや習慣がありますよね。 一番偉い人だからといって規則を破ったり、今までの習慣を変えることは 難しいです。 会社の社長さんが息子に社長の椅子を譲って引退したのだけれど、そのまま 会社のあれこれに口を出す様な状態が院政です。 社長も父の言うことだから逆らえず、社員も前社長の言うことだから無碍にも できない。 簡単にはそんな感じです。 天皇も自分勝手に何でもできる訳ではありませんでした。 律令制度の決まりがあり、代々守られてきた慣習があり、それにはなかなか 逆らえません。 天皇の位を退くと上皇と呼ばれますが、本来、上皇は引退した身なので、 あれこれとしたウルサイ決まり事や慣習はほとんど有りません。 天皇の位を退いたといっても、現天皇は自分の子・弟・甥・孫である事が多く 血縁の・・・つまり皇族の長老として天皇にあれこれ口出しをしてしまうのです。 上皇が言った事や出した文書の方が現在の天皇の言葉や文書より重んじられて いくようになりました。 実はこの頃、既に天皇の力は弱いものでした。 摂関政治といって本来、天皇の家来である藤原家が摂政・関白の位に就き 実権を握って政治を左右していました。 新しい天皇が即位しても元々、「今までの決まり事・慣習」を重んじる天皇は 摂政・関白には逆らえないのです。 そこで引退して上皇となり「天皇と摂政・関白」という今までの間柄を気にせず 自由に権力を奮うことができたのです。 院政は天皇の力を弱めるという欠点がありましたが、家臣である藤原家に牛耳 られていた権力を皇室に取り戻すという利点もありました。 こうしてしばらく最も力のある上皇が後任の天皇を自由に操り政治を動かして いったのが院政です。 最初にあげました会社の例でもありますように本来引退したはずの立場であり ながら実権を握る続けている事を今でも「院政だ」等と陰口を叩くことも ありますよ。
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お礼
ありがとうございます!とても分かりやすかったです。 なんかいろいろ裏事情(?)みたいなのもあっておもしろかったです。よくわかりました