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作家の井沢元彦氏の歴史学説は…。

Matudonoの回答

  • Matudono
  • ベストアンサー率30% (3/10)
回答No.1

私は大学で日本史を専攻していますが、井沢氏の説などを言ったら、まず相手にされません。早い話がとるに足らぬものという認識があります。 でも、今の歴史学は民俗学や宗教学などの学問の成果を積極的に取り入れていますよ。特に網野善彦氏や五味文彦氏などが著名です。 歴史学は、というより学問とは裏づけがあってはじめて成り立つものです。確かに井沢氏は井沢氏なりの裏づけがあるでしょう。しかし作品(小説等)と研究は違います。 聖徳太子は怨霊になったといいますが、怨霊ならば何故日本仏教の教主とまで謳われるのか?私は怨霊とかにとらわれて肝心の史料や美術、仏教等の考えを見失っているように思えるのですが・・・。また、あの権力者中心の見方は、どうしても偏見が生まれる方法だと思いますよ。

noname#3096
質問者

補足

ありがとうございます。 私も井沢氏の学説には大いに眉唾だと思っているのです。 しかし、インチキ学説ならインチキ学説で、正統な歴史学者の方々にコテンパンに粉砕して欲しと思います。 何といっても相手は人気作家。このままでは井沢氏の説の方が広く世の中に広まってしまいますし、やがては「井沢氏の本を読んで歴史が好きになった」人が歴史学者を目指すようになったら…。 Matsudonoさんだけでなく、他の歴史学者や歴史愛好家の方に、井沢氏への反論をお願いしたいのです。 例えば、「聖徳太子は怨霊になったといいますが、怨霊ならば何故日本仏教の教主とまで謳われるのか?」とMatsudonoさんが言われるのですが、それは「怨霊神である菅原道真が、天神様として尊敬されているのと同じ」と井沢氏なら言うのでは?

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