• ベストアンサー

徳川政権下の足利家

徳川政権下の足利家はどういう扱いをされていたのでしょうか? 義昭は、秀吉から1万石をもらって朝鮮出兵に参加し、 1597年死亡までは調べられたのですが、 その後の足利家です。

noname#108554
noname#108554
  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数1

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

すでに回答がありますが、将軍家の方は義昭で断絶しています。一方鎌倉 公方は鎌倉公方→古河公方→喜連川氏となって、明治維新を迎えています。 喜連川氏は、外様大名ですが徳川氏によって厚遇されています。これは 徳川氏に系図を貸したからだ、と言われています。

その他の回答 (3)

  • shoyosi
  • ベストアンサー率46% (1678/3631)
回答No.3

15代将軍義昭の嫡子義尋の子供は僧籍に入ったため、嫡系は断絶、一説によれば、義喬、義在の2人が別にいたが、一色氏を継いだり、永山氏を継いだということになっています。 参考 http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/Rekishi/DramaticBlood/contents/ashikaga.html http://village.infoweb.ne.jp/~fwiy9889/index.html

  • shimadzu
  • ベストアンサー率26% (18/68)
回答No.2

他に「阿波公方」というのがいます。 19世紀はじめくらいまで徳島に居たみたいですが、 その後京に戻って、・・・ どうなったか知りません(ごめん)。 江戸時代、蜂須賀家にいじめられたみたいですが。 那賀川町立歴史民俗資料館 http://isweb1.infoseek.co.jp/~rekimin/ 阿波公方略史 http://isweb1.infoseek.co.jp/~rekimin/gaisetsu/kuboryakushi/awakuboryakushi.htm

  • chaff
  • ベストアンサー率30% (264/874)
回答No.1

どうも将軍家は後絶えたようですが、鎌倉公方の方は、明治維新まで続いたようですね

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/6683/ashikaga.html,http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kiturega.html

関連するQ&A

  • 足利義昭

    書籍を読んでいて、「室町幕府第15代将軍足利義昭は織田信長に反抗して追放された。」とあったので、ふと、「義昭のその後」というのが気になってウィキを閲覧してみると、生き延びているのですねぇ。それに驚いたというか、おのれの無知にも驚きましたが「関白秀吉、将軍義昭」の時もあったのですね。 漠然とした質問なのですが、 1 義昭は、殺されないで、なぜ「追放」で済んだのでしょうか??? 2 義昭は、なぜ「将軍職」を降りたのでしょうか???秀吉からの圧力があったのでしょうか??? 3 それと、根拠のない漠然とした印象なのですが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とダブって見えてきました。この「根拠のない漠然とした印象」というか「徳川慶喜とダブって見えた」ことは単に無知によるものなのでしょうか???幕府崩壊後も生き延びたとか、天寿を全うしたということ以外に二人に共通するものがあったら教えてください。

  • 足利義昭について

    1・足利義昭は毛利氏の下で天寿を全うした? 2・足利義昭と豊臣秀吉が茶席を設けた(お伽衆的存在だった)? 3・足利氏の子孫の方はご健在でしょうか?

  • 豊臣秀吉が将軍でなく関白になった訳

    豊臣秀吉が征夷大将軍でなく関白になった理由として、将軍になるため足利義昭の猶子(又は養子)になろうとして断られたので、藤原家の猶子となり関白に任官したという説をよく聞きます。(林羅山の説が初出) (1)本当に当時の秀吉の希望があったとして、足利義昭が断れたのか? (2)日本統一後の1590年代になると、足利義昭はお伽衆として秀吉の  近くに召し出されてます。1588年には将軍辞任してますし、  その時に再度申し出があれば断れないのでは? 更に、将軍は源氏でなければならないとしても、源氏は足利家だけではありません。後年徳川氏は源氏の傍流を自称して将軍になってます。 (3)当時の秀吉の実力からすれば、適当な源氏の傍流の猶子(又は養子)と  なれば 簡単に将軍になれたのでは? そう考えると秀吉は将軍になれるけど、関白を選んだように思えます。 関白の方が臣下最高位ですしね。 当時秀吉の意向に逆らえる人っていないと思うのです。 誰も朝鮮出兵に反対できない。どの大名も領地の移封に逆らえない。 皆さんはいかが思われますか?

  • 戦国末期の日本の動員力

    秀吉の時代には100石につき2.5人の動員力があったそうですが 日本全国で1500万石とすると37.5万人になりますが 実際に朝鮮出兵(朝鮮に渡らなかった徳川の兵も含む)や 関が原の戦い(東北や九州の戦いも含む)の時は 日本全国でどれだけ動員されたのでしょう?

  • 豊臣政権、秀吉死後のIF

    関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。

  • 豊臣200万石、徳川250万石

    一般に言われている秀吉死去時の両家の石高、豊臣の直轄領は徳川よりも少なかったという評価。 でもこれっておかしくないですか? 豊臣の200万石には譜代大名の石高は入っておらずに代官管轄の直轄領と旗本領のみ、しかし徳川の250万石には10万石を超える徳川三将(本多、榊原、井伊)、それ以下でも大久保や酒井の万石級の所領や与力にあたる結城秀康の所領も含まれている数字です。 もっとも秀吉存命時は全ての大名は秀吉の家臣だったから、それなら全国全て豊臣領とも言えますが、徳川以外の大老や外様大名は除いて考えればよいと思います。 具体的な譜代・外様の区別は秀吉の手で万石取りになった大名を指せば良いかと。 つまり有名どころでは両加藤、福島、浅野、石田、大谷、藤堂、蜂須賀、山内、堀尾、中村等です。 これを含めれば徳川の250万石をゆうに凌ぐと思うのですが、この解釈はやはり無理があるのでしょうか? ご意見をお願いいたします。

  • 豊臣秀吉の韓国での評判

    豊臣秀吉が大好きです。 天下人になるための努力や知恵、親しみやすい人柄など魅力を感じます。 ここでお聞きします。 朝鮮出兵をしたことから韓国では侵略者という評価をされており、徳川家康が人気が高いということも知っています。 (1)全く秀吉の人気が無いのでしょうか? (2)現代の日本人が秀吉を愛することについて韓国の人たちは苦々しく思っているのでしょうか?

  • 足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか?

     私は、歴史上の人物の中でも、特に足利尊氏と源頼朝が好きなのですが、それぞれ室町幕府、鎌倉幕府を開いた人物であるにもかかわらず、世間一般からの人気が全くないような気がするのはなぜでしょうか? 初の武家による政権を開いたという点で、徳川家康より源頼朝の方が実績が上だと思いますし、武士としての能力や政治力において、足利尊氏は織田信長を上回ると思います。  両者とも後世の歴史家から非難されている部分もありますが、それは信長・秀吉・家康にもあてはまることですし、幕末の志士も多々やっています。でも、戦乱を終わらせて政権を開いたということはそれにも遥かに勝る功績ですし、もっと人気が出てもいいように思います。  あと、私以外にも尊氏か頼朝が好きな人は結構いるのでしょうか?

  • 豊臣秀吉の晩年(朝鮮出兵時)は発狂していたのか?

    『豊臣秀吉は天下統一を果たした。 その後秀吉の野心は尽きることなく、世界征服をもくろみ、まず 朝鮮に兵を送った。』 誇大妄想にとりつかれた秀吉は、発狂状態だったと言われています。 しかし、歴史研究者によると、秀吉が海外に兵を送ったの目的は、 増やしすぎた兵たちの仕事を作るため、そして褒賞として与える土地が 日本にはもう無いため、やむなく海外にそれを求めたという説があります。 なるほど。そう考えると納得のいく理屈です。 しかし、ここでひとつ疑問があります。 「秀吉の死後、急に朝鮮から兵を撤退したのは何故でしょう?」 秀吉が死んでしまえば、「もうこんな無茶な命令を聞く必要ない」と 側近が判断したのであれば、やはり朝鮮出兵は秀吉の独断による部分が 大きいと言えるでしょう。 朝鮮出兵に対して、秀吉の頭の中で合理的な目的があったにせよ、それは 周囲に理解しえないものだとすれば、やはり秀吉個人の誇大妄想と言えます。 秀吉死後、その家臣たちが朝鮮出兵を諦めたのは何故? 秀吉は狂っていたのでしょうか?

  • 朝鮮出兵はなぜ打ち切られた??

    秀吉が全国を統一したあと名護屋城という主城をも建設し朝鮮に出兵しますが途中で挫折します(財政難、とどこかに載ってましたがご存知の通り豊臣家はまだまだ莫大な資産を保有していたのでなんで止めてしまったのか資料を見る限り曖昧ですし謎です) 主に家臣への褒賞、この時代は土地や所領が褒美となったわけですが日本にはもう土地がなく信長の教えなどもあったのか国土を広げようとしたのでしょう。 これには留守役でしたが徳川家康、前田利家なんかも参戦してました。 そこでお聞きしたいのですが江戸幕府という政権を樹立させた徳川家康はなぜその後、落ち着いてからでも秀吉と同じように朝鮮半島に出兵させなかったのでしょうか?家康自身の代で出兵が無理なら秀忠、家光と代をまたいでもよさそうな気がしますが・・・(参勤交代とか地方大名の資金繰り弱体化させたいんだったら外国に派兵させなかったのはなぜ??) また、当時の朝鮮半島は日本側が本気で攻め入った場合、そこまで強固な国体制だったのでしょうか? 秀吉の時とは真逆でむしろ内へ内へ閉じこもるよう鎖国したりしてなんだか不思議な気がします。 武将の性格、と言われればそれまでなのかもしれませんが当時の日本経済の面や、軍事力の面からも考察して頂ければ嬉しいです。 あの時、朝鮮半島が日の本にくだっていたのなら、また違う世界観になっていたと思うとファンタジーですよね。 複数な質問すみません。個人意見などでも構いませんので回答のほど宜しくお願い致します。