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イエス・キリストを英語読みでジーザス・クライストと読むのは・・・

nabayoshの回答

  • nabayosh
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回答No.1

ジーザスという呼び方をすることは別に悪くはないですよ。 ただ、やはり、訳語としてみなが統一して読んでいるものを、そういう風に読んでしまったら、共通認識が得られないということなんですよ。 かの方が日本語の文脈で、ジーザスというのはあんまり感心されないのはそういうことではないでしょうか。 ジーザスと読んだっていいじゃないか、なんてこと言ったら、僕はヨハネのことをヤン、パウロのことをパヴェウと呼びますよ。それで通じますかね。これはポーランド語ですけどね。あ、呼び掛ける時はポーランド語は語形変化しますからね、マリアよ、と呼び掛けると「マリオ」になりますよ。そんなんでみんなわかるんでしょうか。 「ミハウ・アニュゥ」というのを、「大天使ミカエル」と訳したら間違いで、「ミケランジェロ」のことだったりするケースもありますよ。 だから、共通認識を大事にしたいがために、日本という領域では定番の訳し方で話した方がよいのですよ。 もちろん、日本でも揺れはありますよ。イエスではなくて、イエズスと言ったり、大昔はヤソと読んだりといった感じで。マタイも、マテオなんて呼ばれていた時もありますしね。 しゃべっていて出てきてしまう時はまだいいですが、文章を日本語で書く時は、日本語ではどう表現するのが適切か、ということを考えるべきなのです。 バベルの塔が崩れた後の人ならばこそ、こういう配慮は必要なのだと思います。

isiatama
質問者

お礼

お答えありがとうございます。(何か、いつもこの言い方しか言わないなあ) なるほど・・・バベルの塔が崩れた後、言葉がばらばらになってしまったものね。 これから先書きこみにこの題材を選ぶときは、慎重に行きたいと思います。 ・・・確かにカトリック教会のミサとかたまに行くと(何だろう、この不真面目さ)「キリスト・イエスの」とか「イエス・キリストの」と言ってますもんね・・・でも、アドバイスありがとう。

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