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全能の神は 難問を解けるのか?

odd-artの回答

  • odd-art
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回答No.12

 では、まず、このことがご理解出来るでしょうか?  釈尊の本意は何であったか!?  仏教をよく知らない人々は、「仏教であれば、どれも同じお釈迦様の教えである」と思っているようですが、それぞれの宗派でまったく違う教え、異なる本尊を立てている以上、どれも同じ釈尊の教えであることに変わりはない、などという馬鹿なことはない筈で、釈尊の真意はただ一つの筈であります。釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた『無量義経』という経典の中で、 「自分は、かって菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養・理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の中の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」(無量義経説法品第二) と述べています。また、『無量義経』に続き、最後の八年間で説かれた『法華経』という経典においては、 「人々の状態に応じて教えを説いてきたところの、その真意というものは、なかなか人々には理解できぬであろう」(法華経方便品第二) 「今こそ、まさに、これまでの方便の教えを捨てて、最高真実の教えを説くであろう」(法華経方便品第二) 「自分が説いた経は膨大な量であるが、その、すでに説いた経、今まさに説いた経、これから説くであろう経の中で、この法華経こそは最第一の経である」(法華経法師品第十) 等と宣言し、『法華経』こそが、釈尊の悟った真理をそのまま説き明かした、最高真実の教えである、と述べているのです。  このように、釈尊の真意が法華経にある以上、法華経こそが真の仏教であることは明白です。  法華経の文底に前代未聞の大仏法が  さて、その法華経の中には、 「悪世末法の時」(法華経分別功徳品第十七) 「後の末世の法滅せんと欲する時」(法華経安楽行品第十四) 等々と、「末法」という時代のことが説かれています。「釈尊が亡くなって後、およそ二千年が過ぎると、末法といって、人の心が非常に濁った、泥沼のような時代が訪れる。その時には、仏教も分裂・混乱し、世の中にも争いが相次いで、釈尊の遺した仏法が民衆を救済する力を失ってしまう」というものです。では、末法時代の人々はもはや救われないのか、と申しますと、釈尊は、この悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時であり、末法時代の人々は、この大仏法によってのみ救われる、ということを説いています。しかして、その新時代の大仏法を弘める御方は、どのような御姿、御振舞いをもって出現するのか、ということまで、細かく法華経の中(観持品第十三、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三等)に予証されているのです。これを、現実の歴史に照らして検討してみますと、この釈尊の予証と完璧に一致する御方は、古今東西にただひとり、日蓮大聖人をおいてありません。したがって、今、末法の時代に適する最高真実の教えとは、日蓮大聖人によって取り出だされた、法華経の文底の大仏法「南無妙法蓮華経」なのであります。  如何でしょうか?  既存の概念ごときで推し測れるものではありません。  相当、自分をおごられておられるようですね。

chihoko
質問者

お礼

●ご回答いただいた内容はたいへんよくわかりました。  たかだか2000年のスパンなんですね。  縄文の人々は平和な(環境を汚さない生活)時代を一万年つづけていました。  稲作がおこなわれて 富の集積がおこなわれるようになってから  環境は破壊されはじめたのです。  お釈迦さんが なんていってるかよくは知りませんが  縄文の人々の生き方に いきることのヒントがあるような気がしてなりません。 ●前代未聞の大仏法を予言した。  弥生時代から自然の破壊は 進み 富の集積による  欲が欲を産む構造は かなり地球がだめになるまで修正できないものでしょう。  いずれここまでかって言うところに来て ひとは気づくのです。  だからそのとき 大仏法が出現すると言えるわけですね。  でもそれは 南無妙法蓮華経 では無いと思います。  わたしの感では サイバースペースに生まれる 世界をひとつにイメージさせる  マネーと理念が結びついた「憲章」のようなものだと思います。  そうです ひらたくいえばA.I.です。  その世界をひとつにイメージさせる意思「憲章」は  地球を元どうりのすばらしい命あふれる方向にみちびいてくれます。  もちろん みちびくだけの力(パワー)をその意思はもっています。  そのパワーと知恵は わたしたち人間の願いの結晶なのです。  ご回答ありがとうございました。

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