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お礼率 39% (25/63)

森蘭丸は信長と夜の相手をしていたと聞いた事があります。他にも遠征に出る武将は女では足手まといになるから小姓と性生活をしていたと聞きます。現在も、もちろんバイセクシャルの人はいるのですが、記録に残るほどオープンで珍しい事ではなかったのでしょうか?できれば庶民レベルまでお教えして頂ければありがたいです。
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回答 (全21件)

  • 回答No.6

 日本の男色は、主に「少年愛」を中心にしたものですね。織田信長と前田利家,武田信玄と高坂弾正昌信のことを書かれている方がいらっしゃいますが、これもまず、利家や昌信の少年時代のみのことと言ってよろしいと思います。 「稚児」という言葉をご存知でしょうか。日本には、古来から神霊は幼い子供の姿を借りて現れる、という信仰がありました。神社の祭礼で白塗り化粧に金の烏帽子の「稚児行列」をご覧になったことのある方は多い ...続きを読む
 日本の男色は、主に「少年愛」を中心にしたものですね。織田信長と前田利家,武田信玄と高坂弾正昌信のことを書かれている方がいらっしゃいますが、これもまず、利家や昌信の少年時代のみのことと言ってよろしいと思います。
「稚児」という言葉をご存知でしょうか。日本には、古来から神霊は幼い子供の姿を借りて現れる、という信仰がありました。神社の祭礼で白塗り化粧に金の烏帽子の「稚児行列」をご覧になったことのある方は多いでしょう。神が降りるための仮の肉体を、「尸童(よりまし)」または「依憑(よりわら)」と呼びます。日本の男色の風習の背後には、この「少年は神霊の化身」という信仰があります。
 奈良時代、貴族の子弟が幼少のうちに寺に入り、僧の日常生活の手助けをすることが制度化されていました。寺院はもちろん女人禁制ですので、男児を使ったわけです。さらに時代が下ると、貴族に限らず俗人の男児が寺に預けられ、成人まで学問修行をしながら僧の供侍をすることが一般に行われるようになりました。いわゆる小坊主とは違います。これら有髪の少年達を、寺稚児,垂髪,渇食(かっしき)などと呼びます。
 頭を丸めた殺風景な僧侶達のなかにあって、有髪の少年達は特別な存在であったようです。この僧と稚児の間に、同性愛的な恋愛感情が生まれる場合もありました。
 このような稚児を寵愛する風習は、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まっていました。さらに公家などの貴族の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まりました。
 鎌倉時代から室町時代にかけては、この僧侶と稚児,または公家と稚児の間の交情を描いた、一種の恋愛小説が流行しました。これを「児物語(ちごものがたり)」と呼びます。中でも最高傑作と呼ばれるのが「秋の夜の長物語」(作者不明)です。
 平安時代から鎌倉時代にかけて武士が隆盛すると、今度は武士に稚児寵愛の風習が飛び火しました。武将の身辺の用事を務めるいわゆる「小姓」という身分がありますが、小姓は世話係であり,秘書であり、伝令役であり、ボディーガードです。さらにその中でも特別に寵愛を得た美少年の小姓は、閨で夜伽の相手もしました。これが「稚児小姓」です。
 織田信長と前田利家・幼名犬千代とがその種の関係であったことは、信長自身が利家の前で「昔はお前と…」などと発言し、大いに赤面させたという記録がありますので事実でしょう。ただし若い頃のことで、犬千代は満13歳で信長の小姓となり、信長は4歳年上ですから、そのころのことでしょう。
 実のところ、織田信長と小姓・森蘭丸の間に本当に男色関係があったかどうかははっきりしません。具体的な証拠はありません。信長と蘭丸は31歳も歳が違い、晩年の1~2年仕えただけ(信長は満48歳で死亡)ですから、可愛がっていたことは事実ですが、閨に引き込むほどの元気は信長にはもうなかったかもしれません。
 一方、武田信玄と高坂弾正昌信・幼名春日源助との間に男色関係があったことは、明白なる証拠があります! 武田晴信(信玄の前名)が源助に送ったラブレターが残っているのです。内容を見ると、これがまた愉快です。晴信が弥七郎という別の小姓に言い寄ったという噂が立ったため、源助が嫉妬して怒り、それを晴信が必死でなだめ、絶対浮気はしない、愛してるのは君だけだよ~、と言っているのです。
 その他、宮本武蔵の養子である伊織と造酒之介も、どうも剣術の弟子ではなく稚児であった疑いが大です。
 長くなるのでこのへんで一旦切ります。次は江戸時代から後のことを書こうと思います。
  • 回答No.7

「歌舞伎」と男色は密接なる関係があります。  歌舞伎の始まりは、1603年に出雲大社の巫女であったと自称する「出雲の阿国(いずものおくに)」が始めた「阿国かぶき」であると言われています。時まさに、徳川家康が江戸に幕府を開いた年です。これが爆発的人気を呼び、類似の歌舞団を輩出して全国に広まり、「女かぶき」と呼ばれました。 「歌舞伎」というのは後世の当て字で、本来は「傾き」、人目を引く新奇でとっぴな異装な ...続きを読む
「歌舞伎」と男色は密接なる関係があります。
 歌舞伎の始まりは、1603年に出雲大社の巫女であったと自称する「出雲の阿国(いずものおくに)」が始めた「阿国かぶき」であると言われています。時まさに、徳川家康が江戸に幕府を開いた年です。これが爆発的人気を呼び、類似の歌舞団を輩出して全国に広まり、「女かぶき」と呼ばれました。
「歌舞伎」というのは後世の当て字で、本来は「傾き」、人目を引く新奇でとっぴな異装などを指します。このあたりは、漫画「花の慶次 ─ 雲のかなたに ─ 」を読まれた方ならば、ご存知ですよね。
「女歌舞伎」は、時事風俗を取り入れた唄や踊りや寸劇で人々を楽しませました。と同時に、彼女達の多くは売春を兼業していました。昼はショーを見せ、夜は酒宴に招かれて酌をし、その後はしっぽりと…ということですね。
 この女歌舞伎が流行するにつれて、徳川幕府は風紀上の弊害を恐れ、ついに1629年にあらゆる女芸人が公衆の前で舞台に立つことを禁じました。これは大変に重要な事件でした。これ以後260年以上にわたり、日本には“女優”というものが公式には存在せず、女の役はすべて女形(女装した男の俳優)が演ずるようになったのです。
 女歌舞伎とほぼ並行して発生し、女歌舞伎の禁止によって隆盛を見たのが、「若衆歌舞伎」です。前髪立ち(元服前)の少年達による、女歌舞伎と同様の唄や踊りや寸劇のショーでした。そして彼等もまた、客を相手に売色をしていたのです。男の客を相手にすることもありましたし、女の客と寝ることもありました。
 さて、このような風紀の乱れに対し、1652年、幕府はこの若衆歌舞伎をも禁止します。しかし、この時点で若衆歌舞伎にもしっかりとした組織化がなされていたので、簡単には消滅しませんでした。必死の再開嘆願が効を奏し、幕府は次の2つを条件に再開を許可しました。
 ・ 前髪立ちをやめて、月代(さかやき:前頭部のこと)を剃ること。
 ・ 歌舞,音曲を控えて演劇を中心とすること。
 これ以降の歌舞伎を、「野郎歌舞伎」と呼びます。これが現代の歌舞伎の原形です。

 野郎歌舞伎となってからは、演劇を中心とするのでどうしても女役専任の俳優、すなわち女形(おんながた,おやま)が必要となります。初期にはまだ鬘が開発されていなかったため、紫の袱紗で月代を隠す紫帽子(または野郎帽子)というものが開発され、女形のシンボルともなりました。
 野郎歌舞伎となってからは売色をする風習はなくなったのかと思いきや…実はますますこの傾向は進むのです。
 女形が専任になるにつれて、舞台に立つまでにはある程度の修行期間が必要になってきます。女形にとっては、男に抱かれる、性的関係を持つ、というのは必須の修行であると考えられるようになったのです。そのため、修行中の女形はむしろ積極的に酒宴の席などに招かれ、客に身を売るということが普通に行われるようになったのです。
 女形修行中でまだ舞台に立てないものを「陰間(かげま)」または「陰子(かげこ)」と呼び、舞台に立てるようになったものを「舞台子(ぶたいこ)」と呼びました。
 歌舞伎はその後、人形浄瑠璃と競い合いながら発展し、1800年ごろには大成爛熟期を迎えました。その後明治維新まで、大衆娯楽としての人気は衰えませんでした。
 まだ続きます。次は「陰間」に関してです。
  • 回答No.9
レベル12

ベストアンサー率 39% (212/538)

ちなみに「ヤマイダレ」に「寺」で痔という字になります。 これもお寺で稚児がお尻でしていたからという話です。 俗説かもしれませんが
ちなみに「ヤマイダレ」に「寺」で痔という字になります。
これもお寺で稚児がお尻でしていたからという話です。
俗説かもしれませんが
  • 回答No.5
レベル13

ベストアンサー率 61% (647/1050)

    わたしは原典資料などを見ている訳でも研究しているのでもありませんので、色々な本に載っていたことなどから述べるのですが、まず、日本の文化、そして多分中国の文化でも、「男色」あるいは「男性同性愛・同性愛行為」は、社会的に禁じられていたものでもなければ、悪いことでもなく、風俗が乱れているとか、道徳が頽廃しているとか、そういう意味でもなかったのです。それは、ごく自然なこととして社会的文化的に認められてい ...続きを読む
 
  わたしは原典資料などを見ている訳でも研究しているのでもありませんので、色々な本に載っていたことなどから述べるのですが、まず、日本の文化、そして多分中国の文化でも、「男色」あるいは「男性同性愛・同性愛行為」は、社会的に禁じられていたものでもなければ、悪いことでもなく、風俗が乱れているとか、道徳が頽廃しているとか、そういう意味でもなかったのです。それは、ごく自然なこととして社会的文化的に認められていたのです。
 
  男性同性愛を「悪」「罪悪」「風紀の乱れ」などとする考え・規準は、西欧のキリスト教文化と共に入って来たもので、それが入って来た後も、日本の文化の大勢としては、男性同性愛が悪だとか異常だとか、そういう認識は一般庶民にはなかったはずです。ただ、明治期において、西欧の文明国を自称する国の人々は、日本では、公然と男性同性愛があるというのを知って、その部分が「日本が遅れている部分だ」と評価した事実はあります。これは、江戸時代前、日本に訪れた、スペイン、ポルトガルなどのイエズス会士なども、本国や修道会本部への報告で述べています。日本人は(西欧を除いて)世界でもっとも優秀な国民であるが、男色の悪弊・悪習がある云々というようなことです(そういう当時の西欧でも、公然と認めていなかっただけで、男性同性愛は一杯ありました)。
 
  明治政府は、文明国として西欧に認められたがっていたので、我が国の男色の流行は憂えるべきことである、などと言っていて、男性同性愛を禁止乃至、文化的に悪だ、良くないことだという啓蒙を、上からの指示や教育を通じて、徐々に浸透させていったということがあります。
 
  日本には、考えてみれば、男色とか男性同性愛が社会的に悪だとか、風紀紊乱だとか、罪悪だとする何の根拠もありません。西欧のキリスト教国でも、実は男性同性愛は多数あり、かなり一般的なことで、庶民も貴族もやっていたというか、自然にあったのです。ただ、キリスト教では、『聖書』に、「男と、女のように一緒に寝る者は、これを殺さねばならない」とか、非常に厳しい「男性同性愛否定」の律法があり、キリスト教では、公然と、男色・男色行為は「悪」である、「神の御意志に反することである・不自然なことである」ということになり、男色が理由で、死刑になったり、重罰を受けたりする者が多数いましたし、単に宗教的なだけでなく、世俗の法律でも、男色・男性同性愛が発覚すると告発され、裁判になり罪となりました。ごく最近まで(半世紀前ぐらいまで)、西欧の国々には、そういう法律(男性同性者を裁く)があり、裁判がありました。有名な例としては、オスカー・ワイルドは、さる貴族の子弟と、そういう関係を持ったということで、裁判にかけられ、獄中生活数年を送りました。その後、出てきてワイルドは、身体を悪くして間もなく死にますが、これは、本当かどうか知りませんが、監獄のなかは、それこそ、女がいないので機会的同性愛の修羅場で、ワイルドのような上品な男だと、暴力囚人の玩具で、やりまくられたので、健康を害したのだいう説(俗説だと思いますが、事実である可能性が高いです)があるぐらいです。
 
  日本に戻ると、江戸時代には、公然と武士も庶民も、それが好きな人は、男性同性愛をしていましたし、戦国時代、室町時代、鎌倉時代も同様です。武士階級だからということはなかったようです。平安時代以前になって来ると、資料が少なくなってきて(公然とは、性的な事柄は露骨に書かない文体であったので、記録に残らないのです。ただし、文章の行間を読むと、それと分かります)、確実には言えませんが、あまり事情は変わっていなかったと思います。平安より前の時代も同じです。
 
  武士や戦士の場合、これは世界の文化で共通するのですが、男性同性愛などで成員が互いに結ばれた戦士集団の方が、その程度の低い集団より、集団戦闘などでは、強かったという事実があります。人は、自分が憧れるもの、理想とするものに対し、愛を抱くもので、この「憧れる」ものは色々な意味がありますが、戦士にとっては、一つに、優秀な戦士こそ理想と仰ぐというのが言えますし、戦士集団の若い者は、年長者に憧れや愛を抱き、また、それを受け入れ形を作る者が、優れた武人として認められ、また、このような男性のあいだの性的関係も含めた広義の「友愛集団」は、互いの結束も強かったということがあります。近代軍のような規制が厳しくなった軍隊は、女性を集団から規則で排除しましたが、昔の戦士集団は、別に、戦地であっても、相手にする女性(欲望の対象とでもいえばよいか)には、そんなに困らなかったのです。必要なら、戦地で、女を強姦してもよいし、昔の軍隊には、娼婦集団が、付随していたというようなこともあります。無論、「男性友愛」で結束を意図的に強めようとする軍集団の場合は、意図的に女性を排除しました。古代ギリシアの軍隊には、そういう傾向があり、なかでもスパルタには、念友関係で結ばれた者たちで、構成される無敵の軍隊がいたのですが、この有名な軍隊は、確か、ペルシアか、アレクサンドロスの軍隊に破れたはずです(合理的戦法や圧倒的な軍事力の差の前に、精神的絆で無敵を誇った軍も破れたということです)。
 
  武士レヴェルでも、庶民レヴェルでも、男性同性愛関係は、日本では、珍しいことではなく、ごく普通のことだったのです。支配者の場合、自分を裏切ることのない側近を造るためには、若いあいだに衆道の相手をさせ、自己の人間をよく教え、寵愛することで、その心を掴んだということがあります。若者はやがて、成人して家来になる訳で、この時、念愛関係があった家来は、それだけ、心のなかまで知っており、深く相手を知っているので信頼でき、また家来も、単に、俸禄や、恩賞で仕えているのでは、義父や兄やそれに準じる人として主君を仰ぎ見るので、信頼関係も深く、仕え方も、誠心なものであるので、何時寝首をかかれるか分からない戦国では、こういう形の家来を若い時から育成する必要があったのです。単に容姿だけではなく、有能さや、武勇や、誠実さ、頭のよさなども考慮に入れて、側近の小姓を決めたとも言え、男色が好きな武将は、美童も求めたでしょうが、それほど容姿がよくなくとも、将来、優秀な家来となりそうな、心の直い、優れた若者は小姓として寵愛したということが、ごく自然なことだったのです。
 
  機会的同性愛・環境的同性愛というのも確かにありますが、その場合は、女性がいないので、その代用に、女性的な男を、女性に見立てたということで、これはごく普通のことです。しかし、性的欲望や、憧れや、親しくなりたいという欲求は、性別に関係せずある訳で、ごく自然な感情、行動だと言えます。
 
  大名や武将は、後継者を造らねばならないので、男色ばかりしていると、家来が、もっと正室・側室のお相手をして、子孫を残されるようにと、忠言というか、圧力がかかったものです。豊臣秀吉の場合、根っからの女好きというのと、他に分からない彼の個人の内面的理由があって、意図的に男色を避けたのだと思えます。秀吉ぐらいになると、出自はともかく、男色を嗜んで当然だという考えがありますし、若い家来も望みますし、これは上に立つ者の義務にも実はなります。秀吉の場合、意図して強く避けたのでしょう。
 
  なお、男性同性愛が風紀紊乱だという風に言われるのは、キリスト教社会は、爛熟期のローマ帝国の退廃的文化を知っていますから、それと結びつけて非難している要素もあります。文明の爛熟期には、男色も大ぴらに商売として売り出されるだけでなく、もっと色々な意味で、常軌を逸した性風俗の混乱が出てきます。男性同性愛の「あるべき姿」というのも、古代からある訳で、それからの逸脱がひどいので、ローマ時代の同世代の真面目な人物は、最近の風俗の乱れなどと批判していたのでしょうし、それを元に、誇大にキリスト教文化で、ネガティブ宣伝を行ったのでしょう。(西欧の近代国家で、男性同性愛を罰する法律があったというのは、実質、社会で、そういう行動がかなりあったということなのです。異端者を非難する言葉として、「男色家・大食漢」というような言葉があるのですが、これは非難の言葉で、決まった形です)。
 
お礼コメント
hide120

お礼率 39% (25/63)

回答ありがとうございます。かなりよく理解できました。
投稿日時 - 2002-01-17 12:20:28
  • 回答No.4
レベル13

ベストアンサー率 14% (265/1865)

昔は女人禁制が今よりも多かったので  しょうがなかったのでは・・・   僧なんかにも多かったようですよ   禁制と言うほどではなくても女が入れない所には必ずと言っていいほど  そういう事はあったと言っていた人がいた気が・・・    ...続きを読む
昔は女人禁制が今よりも多かったので  しょうがなかったのでは・・・   僧なんかにも多かったようですよ   禁制と言うほどではなくても女が入れない所には必ずと言っていいほど  そういう事はあったと言っていた人がいた気が・・・   
お礼コメント
hide120

お礼率 39% (25/63)

回答ありがとうございます。
投稿日時 - 2002-01-17 12:21:43
  • 回答No.1

戦国時代の男色は変態行為ではなく、武将の必要悪だったと考えられます。すべての小姓が伽(とぎ。夜を共にすること。必ずしもセックスの相手ではなくても)をしたわけではなく、武将の信頼を得た若い小姓、いわゆる寵童が伽を勤めたといわれます。寵童のなかから多数の英傑が出ています。武将の男色は、死をかけた戦いに出るとき、神社に参拝して必勝の祈願を行い、縁起が悪いといって女性を避けたので、戦場で小姓に伽を命じたことから生 ...続きを読む
戦国時代の男色は変態行為ではなく、武将の必要悪だったと考えられます。すべての小姓が伽(とぎ。夜を共にすること。必ずしもセックスの相手ではなくても)をしたわけではなく、武将の信頼を得た若い小姓、いわゆる寵童が伽を勤めたといわれます。寵童のなかから多数の英傑が出ています。武将の男色は、死をかけた戦いに出るとき、神社に参拝して必勝の祈願を行い、縁起が悪いといって女性を避けたので、戦場で小姓に伽を命じたことから生まれた習慣ではないかと思います。
やがてそれが公然の趣味(?)或いはたしなみとなり必用のない城中でも行われるようになったのでしょう。

男色は長い兵役、或いは監獄でも行われたようです。江戸時代の庶民階級でも盛んだったかどうかは知りませんが、歌舞伎と男色などの言葉も残っているので盛んだったのかもしれませんね。文化が爛熟期に入ると性生活も乱れるようです。
お礼コメント
hide120

お礼率 39% (25/63)

回答ありがとうございます
投稿日時 - 2002-01-17 12:22:54
  • 回答No.2
レベル11

ベストアンサー率 45% (175/383)

戦国時代においては小姓の中でも特に信頼の厚いものが夜の伽をつとめることは、武家のたしなみ、とみなされていたようです。 織田信長には森蘭丸のほかに前田利家が有名ですし、武田信玄には高坂弾正、上杉謙信における直江兼続など武勲においても有名な小姓は数多くぞんざいします。 その一方で、豊臣秀吉は男色を好まなかったようです。 その理由として、一般庶民から成り上がった秀吉ですが、貧困階層にはそのような風 ...続きを読む
戦国時代においては小姓の中でも特に信頼の厚いものが夜の伽をつとめることは、武家のたしなみ、とみなされていたようです。

織田信長には森蘭丸のほかに前田利家が有名ですし、武田信玄には高坂弾正、上杉謙信における直江兼続など武勲においても有名な小姓は数多くぞんざいします。

その一方で、豊臣秀吉は男色を好まなかったようです。
その理由として、一般庶民から成り上がった秀吉ですが、貧困階層にはそのような風習が無かったため、と聞いております。
お礼コメント
hide120

お礼率 39% (25/63)

回答ありがとうございます
投稿日時 - 2002-01-17 12:24:00
  • 回答No.3
レベル14

ベストアンサー率 41% (1452/3497)

今の感覚でいうとハード系の男色なのかもしれませんが,筋骨隆々の腕の立つ侍が夜伽の相手だったようですネ。 最も,豊臣秀吉が男色に興味を示さなかったことから,周囲が美男子を集めて勧めたということを聞き及んでおりますので,美男子趣味という男色も存在していたのでしょう。 はじめは全く興味を示さなかった秀吉もついに最も美しい稚児に近づき,言葉をかけたそうですね。 『そなたに姉御はおらぬか?』と。 ですから, ...続きを読む
今の感覚でいうとハード系の男色なのかもしれませんが,筋骨隆々の腕の立つ侍が夜伽の相手だったようですネ。
最も,豊臣秀吉が男色に興味を示さなかったことから,周囲が美男子を集めて勧めたということを聞き及んでおりますので,美男子趣味という男色も存在していたのでしょう。
はじめは全く興味を示さなかった秀吉もついに最も美しい稚児に近づき,言葉をかけたそうですね。
『そなたに姉御はおらぬか?』と。
ですから,武将すべてが男色の持ち主というわけではなく,ノーマル派もいたということです。
平民出身の秀吉だけでなく,地侍や地方の豪族にはそのようなことが伝えられていないと思いますので,大名クラスの大武将達に関しての話なのかもしれません。
また,多くの武将は男色一辺倒であったのではなく,男女両刀使いだったのですネ。
日本の戦国時代はこのような形ですが,西洋でもローマ帝国の時代などは初夜権を領主がもっており,新郎と新婦の両方と関係を持ったということがありますから,洋の東西を問わず,そういった風習はあったのですネ。
以上kawakawaでした
お礼コメント
hide120

お礼率 39% (25/63)

回答ありがとうございます
投稿日時 - 2002-01-17 12:24:46
  • 回答No.12
レベル11

ベストアンサー率 12% (37/298)

 武士の世界ではありましたが、庶民レベルではなかったようなのです。証拠に農民から太閤様になった豊臣秀吉はまったくそんな事はありませんでした。  ですから女性としか関係を持たない秀吉は特別だったのですね。
 武士の世界ではありましたが、庶民レベルではなかったようなのです。証拠に農民から太閤様になった豊臣秀吉はまったくそんな事はありませんでした。

 ですから女性としか関係を持たない秀吉は特別だったのですね。
  • 回答No.11
レベル4

ベストアンサー率 100% (1/1)

明治期になってキリスト教倫理をベースとした倫理観が導入されるまで他の皆さんの仰る通り、ごく普通に存在していた様です。 氏家幹人さんと言う方がこう言ったテーマに就いて沢山書いていらっしゃるので一度ご覧になって見られては如何でしょうか?
明治期になってキリスト教倫理をベースとした倫理観が導入されるまで他の皆さんの仰る通り、ごく普通に存在していた様です。
氏家幹人さんと言う方がこう言ったテーマに就いて沢山書いていらっしゃるので一度ご覧になって見られては如何でしょうか?
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