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戦国、江戸期の農民にとって領主(大名)とは

戦国、江戸時代の農民にとって、領主(その国の大名)はどの様な存在だったんでしょう?農民が領主に年貢を納めていた事は知っていますが、領主が農民に何かしてあげていたのでしょうか。現代に例えるとミカジメ料を取る代わりに、店を守ってやるなどと言う893屋さんみたいなものだったんでしょうか。 ご存知の方、教えてください。

  • 歴史
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  • nozomi500
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回答No.2

戦国時代、織田軍とその他の武将は違っていて、例えば武田や上杉軍というのは、百姓を雑兵としてかき集めて戦場に向かいました。したがって、農繁期には戦闘ができない(やっちゃったら、米ができなくなるので国中が食糧難)。川中島の戦い、というのは、いくら戦っても、タイムリミットがあるから、最後まで決着は付かない。 対して織田軍は、兵農分離方式で、百姓はとにかく米を供出すればいい。供出された米によって、戦闘集団を組織する。したがって、長期にわたる戦闘が可能になります。長篠の戦いで武田軍が負けたのは、単に鉄砲3000丁(これはウソだったらしい)の成果でなく、生産・補給・戦闘という役割分担のシステムだといえます。この発展が、「検地」であり「刀狩り」であるわけです。 領民というのは、領主の「所有物」です。893屋さんの場合はいちおう「契約」ですが、何かしてやるかわりに何かしろ、という関係ではありません。封建制というのはそういうものです。 たとえば「加賀100万石」などというのは、100万石の米の生産力を持つ土地と領民を持っている、ということを意味します。

densetu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど、当時は封建制だった訳で、GIVE and TAKEといった現代的な考え方がなかった、という事ですね。

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  • noribou11
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回答No.6

別に搾取や報酬というの言葉は歴史的概念ではなく 用語として用いたのであって言葉の定義を問われると 正直、困ってしまいますね。 誤解かもしれませんが、一応、補足いたします。 搾取、報酬にしろ、私は現代人が持っている言葉の感性として用いています。 あくまで現代人に例えるならば報酬といった感覚であり、当時の領民が 労働の対価として農作物を報酬と考えていたということを説明している わけではありません。搾取に関しても経済学とは関係なく一般的な現代人が 封建社会を連想する言葉の感覚です。文中でも「搾取という印象」 「報酬という感覚」「報酬といった考え方」など、現代に例えて説明している だけです。イルカの曲芸と報酬は労働と報酬の単純な説明として 多くの方が理解できると思います。そのときに「イルカは水族館の所有物であり 雇用関係ではない、したがって報酬という言葉は妥当ではない」と言う方は あまり多くないと思いますが。 私も研究者のはしくれですから、言葉の定義の重要性は理解しています。 もしこの質問が経済学、社会学の学術議論であれば御指摘はもっともだと 思いますが、ここでは大目に見ていただきたいですね。 このサイトで議論めいたことを書くと削除の対象となっていますが この手のことは対論があったほうが意味が深まるし、なにより回答した本人が 面白いので対論を展開します(densetuさんゴメンナサイ) 領主というといかにも殿様のような感覚ですが、実際に領地を拝領していたのは その家臣団であります。私の御先祖の惣村も正式には尾張藩であり徳川家の領地に なります。しかし、領主としてはその家老職である千村家となります。 もっとも、千村家とて間接的な存在であり多くの村人にとっては名主が直接の 指導者ということになります。つまり、当時の領民にとって領主とは漠然とした 存在にしかすぎないということです。戸籍とて領主が必要としなかったのではなく キリシタンの廃絶のために幕府の命令で寺院に管理させていただけです。 領主にとって必要だったのは生産量にしかすぎません。頭数を必要としていたのは 地請をしていた名主です。領主から見れば何戸で耕しているかなど、 どうでもいいのです。ようは検地の規準通りの石高さえ納められればいいのです。 雇用関係云々は別として感覚としてみればメーカーの社長と現地工場の従業員の ようなものです。所有物というより「そこで働いている人」としか思って なかったと思いますよ。 公式には移住することは禁じられていましたが、実際には厳しい取締があるという わけでもありません。理由としては、そもそも農民が移住するなんて滅多には ないことですね。飢饉などで緊急な場合を除いては出ていく必要がなかったん でしょうね。でも、たまには移住もあります。 私の御先祖の惣村は飛地でしたので隣村は他国、苗木藩になります。 近親交配は良くないことを経験で知っているため嫁入りに限らずなんらかの交流を 行っていました。町人でなくても伊勢参りだってしていましたしね。 もっとも弥次喜多のように個人的ではなくて村の代表としてですけど。 酒や茶にしても同様です。公的には禁じられていてもなんだかんだのイベントで 飲んでいましたしね。今の道路交通法のようなもので、目立ち過ぎる違反でも しない限り取り締まるほどでもないという感じなのでしょう。 もちろん、領地と領民はセットであり、形式的には領民は領主の所有物かも しれません。しかしながら、双方とも粛々と己の仕事をこなしていただけの ことであり、特に仲良くされることもなければ理不尽な要求も気にするほどではなく 所有物いう表現はちょっと大袈裟かもしれませんね。武家が持つ賤民と 惣村に属する村人は別物であり、惣村にはかなりの自治権を与えていますしね。 まあ、前回の文頭で述べてあるとうり、人によってさまざまなんでしょうが この手の問題は具体例で説明した方が面白いということで、あくまでも 一地方の話しです。もっとも、いまだに一族衆には家督を持った ものしか参加できない説法会に古書が存在し、なにかしらの伝承があるので 裏話があるかもしれません。こればっかりは長男といえど秘密にされるので 当代になってみなけりゃわかりませんがね。

  • nozomi500
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回答No.5

補足。 領民を大事にするかどうかは、領主の気分次第であって、現代でも、クルマを大事にする人・・・、などそれぞれです。 だいたい、「搾取」というのは、資本主義社会で初めて出てくる概念じゃなかったですか? 農産物は決して「報酬」ではないでしょう。(イルカの曲芸でイルカがもらっている魚は報酬とは言わない) 百姓が気分良く生産に精を出して、結果的に生産が増えれば、領主としては得だから、そのために仲良くする、というのはあるでしょうが、そうであっても「所有物」であることに変わりありません。 領民は「頭数」さえハッキリしていれば、領主にとってそれで十分だから、個人を特定するための「戸籍」なんてものは必要でない。ただし、所有物である限り、勝手に領地から出て行くことは許されない、ということになります。 (「ヤジキタ」は領民でなく、「町人」だから、道中膝栗毛が可能だった。)

  • noribou11
  • ベストアンサー率45% (143/314)
回答No.4

この問題はいろいろと意見もあるでしょうが、 せっかくなんで、具体的な例をあげて解説しましょう。 舞台は東濃地方(岐阜県の南部が美濃地方でその東側)のある村。 川向こうの村に館を構えていた斉藤道三の猶子斉藤正義が 新たに鳥峰城(後の金山城)を築城したところからのお話。 天文17年に家臣であった久々利頼興によって正義は近隣の久々利城に 招かれ謀殺されてしまいました。もっとも、正義の横暴さが原因で あったり、久々利家は土岐氏の傍系であるためそのままその地方を 久々利家が統治することで一件落着。 永禄8年になって織田信長に帰順し、その家臣、森可成を金山城主に 封じました。天正10年、本能寺の変が起きると、それまで金山城主 森長可に従っていた東美濃の諸将が反旗を翻しましたが、天正11年、 久々利頼興は金山城で謀殺され再び森家の領地に。 慶長5年、森忠政が信濃川中島に移封され、替わって城主となった 石川光吉も近くの犬山城を拠点としたため金山城は廃城に。 このとき城下町はそのまま犬山城主の領地へ。問題の村はというと 関ヶ原の合戦時に木曽路平定に功をあげた木曽衆・千村家の領地と なりました。千村家は当初幕臣でしたが元和5年に尾張藩に転籍したため その後は尾張藩家老の千村家領地として明治維新まで続くことになります。 多くの華族が東京に移り住むとき、最後の領主千村仲展は 「山之狩人を浜之猟師仕と同じく」とか、「山林自在生長する木を抜取来りて、 都下移し鉢植仕事如し」のように地元に留まり続けましが、相次ぐ改革に ついていけず、隠居し、その子仲重の代となって明治8年に東京に移りました。 (このときマイナーな千村より元々の木曽の姓に改名)これで終わりかというと、 そうでもありません。昭和19年には仲重の孫の木曽義明氏が大阪より疎開。 いまでも地元自治体と古文書の解読等で協力関係にあります。 ちなみにお隣の犬山城主である成瀬家も昭和20年に当代の成瀬正俊氏が 疎開してきています。おどろくのが、この犬山城、いまだに成瀬家の 所有物なんですね。だから現在でも「城主」です。 長くなりましたが、これが領主の変遷です。途中までが直轄で その後は飛地での間接統治となります。 でもって本題の領民の方ですが、領民というといかにも搾取されるという 印象をもちますが、一概にそうとも言えません。昔は国と民が一体化して いたため、国が豊かであれば自分達の地位も向上します。 (ここで言う国とは日本という単位ではなく藩単位) 海外で日本人か中国人かでサービスや警察の対応が違うことがあるような ものですね。したがって自分が生産した米を搾取されるという感覚よりも、 自分達は米を作るという仕事を担い、報酬は生産物の半分という感覚でしょう。 売り上げの半分を己の収入と考えるならば今のサラリーマンよりも よっぽど高給取りと言えますね。 また、当時の村は高度な自治組織でありました。 いわゆる議会にあたる部分が寄合となるわけです。 細かい政策などは村単位で決定していきます。さらに、今の行政が担う 住民台帳の管理は寺院によって行われていましたから領主と領民は 今の行政と住民より直接的な関係ではないかもしれません。 問題の村に関してですが、ここには三十六人衆というものが村の代表でした。 基本的に各領主は依託という形で年貢の徴集を行っていました。 したがって領主が替わったからといって領民そのものに変化はありません。 常に村の代表が村単位の年貢をまとめて納めていただけですね。 県知事が誰になっても現場の担当者が変わらないのと同じです。 ちなにに明治以降は村制となったため、この三十六人衆の筆頭格 (家の規模ではなく学問に優れていた家)が歴代村長となりました。 昭和の大合併で近隣の町と合併しましたが、いまだに地元の話し合いで 町会議員を輩出しています。そして三十六人衆も存在しています。 もちろん、寄合は儀式的なものになりつつありますが。 まとめると、領主と領民の関係は現在の行政と住民の形よりも 会社と従業員の関係が近いといえます。武士団は経理、営業などの事務系で 農民は技術系ということです。米を生産するという職人集団であって 報酬は生産物の何割という考え方ですね。一揆というと武装蜂起を 思い浮かべますが、実際のとことろみんなで山に隠れて農作業を放棄 している間に村の代表者が担当者と交渉するところもストライキと 同じですね。一方的搾取というのは一般的ではないと思われます。 じゃないと、80年そこらで元の領主の疎開をあたたかく迎えるわけ ありませんよね。少なくとも自分の親の世代は領主、領民の関係なんだから。 以上「お前は世が世なら」と教育を受けた元領民の意見でした。

densetu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 史実に基ずいた具体的なお話で、大変勉強になりました。当時の農民も一方的に搾取されていた訳ではなく、各身分において分業制が取られていたと考えればよいという事ですね。

  • takai
  • ベストアンサー率51% (36/70)
回答No.3

きっといろいろなケースがあると思いますよ。 領主といっても、その地方出身の豪族が出世して大名になってしまった場合と、縁もゆかりもない地方の大名がお国替えでやってきた場合とでは領民の忠誠度が全然ちがうでしょう。 また天領の領民は一般的に年貢の税率が低く、幕府直属の領民としての誇りを持っていたということです。 時代劇に登場するような悪代官は実際にはあまりいなかったらしいですが、年貢以外のさまざまな課税を押し付けてくる領主もいました。独自の紙幣を発行して領民には金銀のかわりにそれで支払うという制度もよくみられます。 名君とたたえられるような領主の政策としては治水・交通網整備・産業の育成・教育の普及・治安維持・文化の育成などがあげられるでしょう。 忠臣蔵の悪役、吉良の領地は三河の幡豆というところです。上野介は製塩業を奨励した名君でした。幡豆では先日、彼の三百回忌が営まれたそうで、領民の領主に対する思いがうかがわれます。 戦国時代には当然各地に地方ルールがあり、歴史学の用語では「分国法」と呼ばれています。

densetu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 吉良上野介が領民に慕われていた話は聞いた事があります。実際は忠臣蔵で描かれているような悪人でなく、好人物だったんでしょうね。  ところで封地変えでやって来た新領主に対して、領民たちはどんな心境だったんでしょうねぇ。

  • madman
  • ベストアンサー率24% (612/2465)
回答No.1

町の治安を守ったり、政策を考えたりと、今で言う政府と同じでしょう。

densetu
質問者

お礼

早速の回答、ありがとうございます。 戦国時代の政策についてですが、織田信長の楽市楽座、豊臣秀吉の刀狩、その他それぞれの国で法のようなものがあったんでしょうか。

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