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精神と肉体のアンバランスさに苦しんでいます
odd-artの回答
- odd-art
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精神の稀薄さ・・・、ということに対してです。 かつては、「我思う、ゆえに我あり」と心、主体の考えがありましたが、普段、生活していて、自分を意識して行動することは少ないかと存じますし、意識していると、行動が芝居じみて虚構のように感じられます。 本来は、自分という「我」は存在しないとするのがいいのでしょう。まわり(縁)によって動かされているとするほうが、いいのではないでしょうか? 我にとらわれない。とらわれているとすれば、空しいことに気付かれないでしょう。 私たちの心は時にふれ、折にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、怒り、そして安らぐというようにさまざまに変化します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度に現れます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の環境世界(これを縁といいます)に触れることによって、私たちの生命(身心両面 にわたる人間全体の働き)に、本来潜在的に具えている十界三千といわれるさまざまな働きの一部分が瞬間瞬間に反応するからなのです。 私たちの内なる心と外界を結ぶ窓口が眼耳鼻舌身の五根です。外界の色彩 や物質は眼根を通して心に伝えられます。音は耳根により、香りは鼻、味は舌、冷暖・柔剛などは身体の皮膚感覚によって心に伝達されます。これらの情報を受けた心(意根)は、これを識別 して好悪・喜怒などの反応を生ずるわけです。 人間は自分の心に適ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的なものであり、きわめて当然のことです。 まだまだ、十分ではありませんが、如何でしょうか?
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補足
ええと、ではodd-artさんは精神は縁だとおっしゃられるのでしょうか?では、精神は我だから存在しない方が良いとのお考えですか? それと、重ね重ね申し訳有りませんが、あくまでも自我が幸福を感じようが不幸と感じることで救済を求めようがどうでも良いのです。論点は精神の有無で、有ると仮定した後の答えが欲しいのではないのです。精神は有る、だからこうなんだ ではなく 精神はこうだから有ると考えるってところのodd-artさんの考えを請いたいです。適切なアドバイスお願いします。 あとすいません、質問です 十界三千って何ですか?