• ベストアンサー

「価値と・・・」価値3

aminouchiの回答

  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.1

うーん、fishbowlさんの混乱の度を増してしまわせたのなら申し訳ありませんね。 ただ、混乱の根源ははっきりしています。「価値」という多義的な言葉を無限定で使用し、統一した見解を持とうとしているところにあります。 fishbowlさんの最初の質問は経済学分野での「宝くじの価値」に関してでした。 (http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=170202) 2番目のものは哲学分野での「金の価値」から派生したものでした。(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=185508) で、今回は「ステーキの価値」です。 正面から「ステーキ」の価値が生じる所以を論じてもかまいませんが、それ以前にこれらの三つの質問で同じ意味の「価値」が対象になっているとは思えません。 宝くじでは1億円の値打ちしかないものを2億円で買うのは何故か、と聞かれました(私はこの問題の立て方自体が誤りであると思います)。ここでは「価値」=「財貨の効用」です。 2番目の金については、金は貨幣として使われる場合には交換の尺度としての役割を果たしますが、それを故意に除いて、金に内在する価値はあるのか、という問いを立てられました。ここでは「価値」=「人間による評価」です。 そして今回のステーキではある意味では美術品・芸術作品の評価に通じるものがあり、これも「人間による評価」ですが金と異なるのはステーキには金のような交換性がないことでしょう。どちらかというと「価値」=「有用性」に近いものです。 人間はその長い歴史の中で、貨幣という非常に有効な概念を発明し使用してきました。これは本来、比べることのできない二つ以上のものから、行動、さらに愛の概念のように具体性をも持たないようなものまでを価格という尺度で価値を比較できるようにしました。しかし、比較可能になったとは言え、その源泉は物々交換に始まる、ものとものとの交換比率であり、芸術品のように評価が一定しないものや恋愛・正義・平和というような抽象概念にまで「価値」という言葉が使われるからと言って全てを統一的に理解することは困難であると思います。 前回の質問において、ある方は独自の「価値」解釈であなたにお答えしたために混乱を招いたと思われます。なお、私はこうした疑問については対話を重ねることによってしか納得を得られるものではないと思っておりますが、Q&A形式とは言え回答とそれに対するお礼というこのgoo(OKweb)の形式では充分な対話が可能とは思えません。できましたらメールででもお話したいものですね。

noname#1317
質問者

お礼

aminouchiさんご回答有難うございます。 やっぱりばれていますね、最初の宝くじは大失敗でした。「価値観」について量の変化が質の変化を伴うのだろうかと言う意味で宝くじを取り上げたのですが、思慮不足と反省しています。 2回目以降は真正面に価値についての疑問を正直に質問しているつもりですが「言葉で気持ちを伝えることは難しいですね」 他で質問したのですが、価値という言葉が多義的といっても意味が多すぎて、言葉としての機能が失われてしまいませんか、名詞としての「価値」という言語の意味も、もっとはっきり理解したいと思っています。 本当は大法螺吹きになりそうで言いたくないのですが、価格からなぜ正義感がなくなったのか考えるために価値のことを考えているのです。かっこよすぎるのでほんの少しそんな気持ちがある事にしておきましょう。 またよろしくお願いします。 

関連するQ&A

  • 牛肉が硫黄臭いのですが・・・

    今日 ネット通販で買ったオージービーフのサーロインブロックが届きました。 早速スライスして焼いて食べてみたところ 肉の一箇所だけが硫黄臭いのです。 (一般的な形状のステーキスライス肉の 端っこにちょこんと付いている部分です。分かって頂けるでしょうか・・・。) 最初は腐っているのかと思ったのですが その部分のみ異様に臭く他の部分は美味しいので不思議に思い質問しました。 これって 輸入牛肉には良くあることなのでしょうか。 又 打開策はないものでしょうか。 そこ以外は本当に美味しく 値段も手頃なので残念でなりません。 ちなみに他のスライスを生の状態で嗅いでみたところ やはり同じ部分が臭いました。 焼き具合はウェルダンでしたので 生焼けだったという事もないと思います。 料理酒に浸けたら臭みが抜けるかと思い 2~3時間浸けて見たのですが依然臭いままです。 後 きつめの香辛料で食べてみてはと思い ワサビ醤油や卸にんにくなど試してみたのですが 口に入れ鼻に臭いが抜ける際にどうしても強烈な臭いがするのです。 どなたかご存知の方おられましたらご回答のほど宜しくお願いします。

  • 第拾弐話-結婚の価値は?

    男性・女性ともに「独身」が増えていますね。 (「タイトル」は単なるギャグです。) アラフォーだとか負け犬だとか、独身男子は毒男だとか酷い言われ様です…。 でもよくよく考えるとそうやって煽って貶しているのは30代以上の人間に相対的に多い気がするんですよね? んでもって、次に思うのは男女の性別的対立。 これは逆に年齢じゃなく、結婚願望の強い人が結婚願望の乏しい人に対する差別(例えば、男性は結婚しない女性を負け犬だとか、女性は結婚しない男性を冷めるとか頼りないとか草食男子とか…etc) 自分は20代後半の男性です。 別に無職というわけでもないし、性的不能(所謂イン○)というわけでもない。別に自慢するわけでもないですが、念のために疑念を持たれないよう言うと、女性と交際したことが無いわけでもなく、外見に多大に致命的なコンプレックスが有るとも思ってはいなく、浪費癖等…仮に婚姻生活を演じた場合に致命的な欠陥が有るわけでもなく、まして同姓に興味があるわけでもない。自分では普通だと認識しています。 仕事は忙しいですが、忙殺されているレベルでもなく、それなりに自分の時間は持っていると自分では認識しているつもりです。 (ただ、ほぼ全てに醒めているというか、どうでもいいというか、実社会に飽きたというか、別にクールとか言うカッコイイ言葉に値するものでもないですが、人生自体に疲れています。そのために簡単な精神年齢で150歳以上(仙人レベル)とかいう事を言われました。) 結婚に纏わる話題は自分が全く関心無くても30歳を境目に、外部から非常に強い圧力に晒されます(自分も最近徐々に外的プレッシャーを感じ始めました) 確かに、自分が全く結婚に興味ないのならほっとけば良いのでしょうが、事態と現実はそう理想通りに甘くなく、30歳過ぎて独身でいることで根も葉もないウソの噂すら流れる始末(年上の同僚がそれに晒されてノイローゼになりました) それでもまだ女性はマシな方で、最近は結婚圧力もセクハラになる事例が判例で出た為か、比較的表だった批判は無いです(裏は有るでしょうが、知りません) ただし、男性の30歳越え独身に対する批判は痛烈な物があります。だらしがないとか、気持ち悪いとか、世間体的に有り得ないとか、もはや名誉毀損や強要罪、果ては仕事に支障さえ出る可能性も有ることから、威力業務妨害及び脅迫罪にも該当するんじゃないのかというくらいの勢いです。 おそらく法的には楽勝にクロでしょうが、一個潰したところでまた新たな芽が出るだけなので、静観していますが、世論的に男女同権と云うならば、真の意味でマイノリティー、即ち多様な価値観の下に於ける弱者も保護されるべきだと思うのですが、どうなんでしょう? それとも一部の情報機関が単なる話題集めの為にこういう情報を流すのか? まぁめんどくさいので騒ぐつもりは無いのですが、意見として聞きたいなと思って参りました。 また、仮に結婚の価値は何でしょうか? 精神的安らぎ?家族?子供?世間体?(世間体は価値観が多様化する段階に於いてあまり意味を成さなくなるとは推察してます)もしくは種の繁栄としての義務?それならば何故先進国中心に少子化が進む? まぁ損益で全て考えるから問題とも思いもしますが、結局トータルで益は乏しい気がします。 人生の残り時間は必然に減るわけで、その中で家族を持たなくとも気の合う仲間と生涯笑いながら終えて行ければ、100点とは言わずとも、結果良ければ全てよしみたいな感覚では無いでしょうか? まして、希望も夢も未来も乏しい現実が渦巻く時代に巡り会ってしまった偶然が、必然的にそうした価値観を作り出すことは仕方がないと思うのですが、どうでしょう?

  • 実は日本は発達障害者が極めて行きにくい国!?

    実は日本は発達障害者が極めて生きにくい国なのではないでしょうか!? 欧米の方がずっと生きやすいのではないでしょうか? だって あちらはまず電車やバスや配送が予定時刻より遅延するなんて全くの普通 接客業が日本よりずっと態度が適当 仕事上ミスやらかす人間が日本とは比較にならない程多い。つまりそれだけミスに寛容ってことだろうし また 日本より発達障害精神疾患に対する認識医療支援がずっと進んでると聞く 日本で仕事に求められる正確さ丁寧さ 特に外国人から見れば正気の沙汰ではない過剰なまでの接客業の丁寧さ これらこそ発達障害者が働いて生活していく上で最悪な環境なんじゃないでしょうか? さらに発達障害精神疾患に対する認識も先進国では極めて遅れてるし

  • 感動する哲学の文章はありますか?

    ニーチェのwikiに記載されてあった、この文章にとても感動しました。このほかに感動する哲学の文章はありますか? 「人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E...より引用。

  • 仏教 イスラム教、根本的にどう違のでしょうか?

    以下の教えは、「般若心経の本」:Books Esoteria 発行人大沢広彰 によります。 「般若心経 深波羅蜜多(パーラミラー)とは 布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧」  布施―惜しまず施す .持戒―身を正しく保つ 忍辱―どんなことにも耐えること 精進―常に努力し前進する 禅定―どんなときでも心を乱さぬこと 智慧―物事を正しく認識すること 「仏教の 世界観 一切皆苦」 パーラミター=六波羅蜜多 「パーラミターを会得し 極限で 涅槃に入る人はいる?」 般若=智慧 「般若心経 悟りを否定し 無明から生まれ 無明に死すと」 「無無明とは、人生は濁流に流れる 藻屑?」 「ただ 施しがあることを 望むのみ」 「ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテイ ハーラーソーギャーテー ボジソワカ」 「行きましょう、行きましょう、彼岸の岸に さあ皆で努力して 行きましょう と」 「他者救済の智慧の実践を完成させる と」  「不説過戒―他人の過ちを説くなかれ と」 「不妄語戒―嘘をつくな と」  「輪廻断ち切りれば パーラミター 涅槃なり?」 般若心経 「仏説魔訶 般若波羅密多心経」 「魔訶」:偉大なる 「観自在菩薩」:この世のすべてを知る観世音(アヴァローキャーテーシュヴァラ)=救いを求めるあらゆる人の声を聞き分け、すべてを心の目で見透かして、救済の手をさしのべる存在である。) 「行深般若波羅密多時」:「深」は6番目の智恵を含めて6つの項目すべて、「行」実践すれば少しずつ、悟りの世界 に近づく と <「照見五蘊皆空」:[五つの集合=精神的作用+物質的現象]:月光が地上をくまなく照らすように空であることがはっきり見ることができると 「肉体を含むすべての物質(色蘊)、感受作用 (受蘊)、表象作用 (想蘊)、意志作用(行蘊)、認識作用(識蘊)の五つしか、人間には見つからなかった と。」 「度一切苦厄」:観世音はどんな苦難も例外なく取り除いた 「舎利子」とは、シャーリープトラで智恵第一と称賛されていた人で位の位置づけは、釈尊>観自在菩薩>舎利子」 「釈尊は霊鷲山で瞑想に入っており、パーラミター(六波羅蜜多)を全宇宙に偏在する超越的な場で実践し悟りを開いた観自在菩薩を通じて、釈尊の瞑想が、地上にいるシャリープトラに、広大無辺の響きをもって電磁波のように発せられた と」 「色不異空、空即異色」:あらゆる事物は母なる無の空間、あらゆる事物にその実体はない、母なる無の空間は、あらゆる事物と一体である」 「色即是空、空即是色」:すべては空である。あらゆる事物は、この流転の場の現象である。空がすべてである。流転の場をはなれて現象するものはない」 三法印とは    「緒法無我」+「諸行無常」+「涅槃寂静」---仏教思想の根幹     「緒法無我」:位置により性質が変わってくる。ゼロの位置が1の位か10の位かまたは100の位かで数が変わる。諸法:我々が知覚し認識するすべての事物、それらは決して関連なくして存在できない。おかれた位置によって、内容を変えるだけ。碁石の石が、その碁盤の位置によって、強くもなり弱くもなるように。   我欲が良いとか悪いとか言われるが、それがなければ生きる意欲が無くなってしまう。しかし固執しすぎるといけない。中道でなければならない。 「諸行無常」:すべては変化するという客観的な事実をいう 「受想行識、亦復如是」:目に見えるもの、心に浮かぶこと、やろうと意志すること、自分はこうだと認識していること、それらの自我の全体は、これもまた空である。    五蘊皆空を繰り返している。五蘊とは、色、受、想、行、識       色(肉体)ーーーー(心)受ー感受作用ー楽しい、苦しい、痛い                     想ー表象作用ー好きだ、愛しい、憎いや空想                     行ー意志ーある方向に心が働いていること                     識ー認識作用ー知識、五感を通じてものごとを認識すること    ひとはそれぞれの気質や生育歴を通じて、ある一定方向に人格を形成していく。これはそれぞれの世界観、価値観によって形成される。大切なことはその世界観、価値観に矛盾を生じさせずに、一つの人格を形成すること ここまでで仏教とは、人間の人格を高く評価している点に特徴があると考えます。 一方イスラム教とは、人格を認めているのでしょうか。 イスラム教では、来世と現世をはっきりと分離し、来世では裁判があり、地獄行きと極楽行きに分離されると言われています。 そしてモハメッドー予言者の命令は絶対であることを強要されます。 このような状態では、個人の人格は認められるのでしょうか? ウサーマビンラディンは、予言者に対してはどのようなスタンスで自分を認識されていたのでしょうか?

  • 武道の人間形成。

    武道の人間形成。 武道では人間形成を重視していますね。わたしは武道ではありませんが西洋剣術というそれに類似したようななものを趣味としております。私自身はあくまでも趣味と研究を目的としていましたが、最近、若者がエクスカイヤ(従騎士。弟子のようなもので師弟関係を契約する)を申し込んできました。 海外ではこの関係のシステムはきちんとあり、マスターレベルはすばらしい人ですが、日本のグループは小さくマスターなどはいません。私のグループはノブリス・オブリージュを大切だとしていますが、道徳を教える団体ではありません。遊びと活動のなかでそれが養え、日常に生かせればよい程度の認識でした。 単に技術的なことを教えたり使用する武具の援助をするだけならよいのですが、しかし、この関係となると騎士道といった精神面をむしろ教えていかねばなりません。これは相手の精神、価値観、思想、哲学にわたしの行動が強く影響をあたえることになります。若者一人の将来を左右することにあり、非常に責任が重大で(積極的ではなくても)マインドコントロールをすることになるからです。 私自身、人間形成がなっているとは露ともおもっていません。 日本の武道では剣道始め「人間形成」が大きくうたわれていますが、具体的にはどのような指導をしていますか? 武士道そのものを話題として価値観、思想、哲学をことばで語るような指導をしていますか? 礼儀作法など形や武術を通じて学ぶ云々ということではなく、武道を通じての思想教育をどのように実践し日常にいかしていますか? 師範はその師弟関係の重大さをどのように認識し行動をしていますか?

  • 自己分析から哲学してみる

    私は9年前に「現代が社会進化の移行期で既に4千年経っている」ことを、おぼろげな認識ではあるが、ハッと気付いた。目覚めたのです。しっかし、だからって、私に何ができる? 奇跡はね、私は脳障害だからこそなんだけど、たまに起こる。私は口腔内の感覚異常で毎日へんな気分だ。しかし逆にその脳が生む幻覚にも規則性があるのが解る。五感は量子交換なんでしょ? つまり量子交換にも規則性がある。そして脳内のアナログな回路がバグを生むと、幻覚になるっていう。視覚的幻覚もたまにあるが、口腔内はいつでもどこでも可能なのはなぜなのか? 特に「舌」が大きな主役だ。 そんな私に何ができる? 社会進化の移行を止めなきゃ。宇宙が私の補完なんだから、何かできるはずなのに。やはり、どう考えても己の認識を深めるしかない。誰かが言った。様々な障壁は、己の認識の浅さに起因する自己矛盾である、と。 馬鹿な私にできることは精神性の向上しかない。でも面白く生きたいものだね。何にでも基本と応用がある。基本はそれでいこう。応用は、私の未知なる不思議な意外性に期待しているのだ。きっと死ぬまでに意外なことを自他共に体験できる。 だって初めて書き込んだ掲示板に賢者がおり、初めてのツイッターで同一の芸術感覚を持つ東洋の歌姫と話しができたり。その谷山さんの歌の歌詞は、その賢者ほどではないが、同じ指向性を持っている。また、漫画の世界では、人間とは「光りの矢のようなもの」と表現する作品さえある(ディスコミュニケーション=相互不理解の意味)。 全てが何かへ向かう。 「己の認識の浅さに起因する自己矛盾」の意味が上手くイメージできないんですけど。

  • 大企業勤めの社員の金銭感覚

    大企業勤めの社員の休日休暇の過ごし方。。。現在東証一部会社の社会人2年目の会社員です。年商1100億の社員は2000人の会社です。大企業と言っても年収は350万です。 私の会社は大企業というのか微妙なラインですが。。。 早速ですが、仕事に対しては向上心はあります。 ただ私は趣味が少なく、趣味が少ないことが仕事に影響するのではないか心配です。 趣味が薄いからと言って、人間力不足、経験不足、見聞不足など。 例えば、同僚や他部署の同期は、休日によく出かけたりなど毎週活発に遊びに行っています。 大企業の人間だからかもしれませんが、金銭感覚が私の感覚では考えられない方が多いです。 休日は毎週、ラーメン巡り、買物に出かけたり、渋谷に行ったり、六本木や麻布のバー行ったり、ライブ行ったり、フットサルやったり、ゴルフに行ったりし、海外旅行も年に2~3回も行ったりしています。よくそんなに金あるなという感じです。下記に述べておりますが、私の会社の人はほぼ裕福orそれなりに金のある家庭に生まれている人しかいないのは事実です。スーパーの西武ストアや京王ストア、マルエツ、いなげやが安いと言っています。オーケーやビッグエー、ロヂャースが普通の感覚からすると違和感を感じます。 海外旅行の今年の出国者は65万人だそうですが、不自由なく動ける身体のある国民は恐らく何千万単位かと思いますが、そのうち、海外旅行に言っている人はたった65万人しか言っていないと言うことは、65万人より下回る人間しか金持ちor中堅以上の家庭がいないということになると思います。そう考えると、私の会社の中にそういった人間がほぼ入り込んでいることになると思いますので、金持ちor中堅以上の家庭だと言わざる得ません。 私の妹が勤務している会社はハロワで見つけた会社ですが、社員200人程度しかいない中小企業で、海外旅行なんて行っている人は皆無のようです。皆毎月18万~20万程度でやりくりしています。妹の会社と比較すると、何か大きな違和感を感じます。 そもそも中小企業と大企業を同じ土俵で見ていることがナンセンスかもしれませんが。。。。 以上のように、周りの金銭感覚や価値観について行かれません。 かくいう私はせいぜい、ゲーセンに行ったり、書店に行ったり、一人で公園の池に釣りに行ったり、など高尚な趣味は持ち合わせていません。基本家でゴロゴロしたり、勉強したり、DVDを見ていたりしています。趣味が薄いかもしれません。 価値観や家庭環境によるかもしれませんが、自分の中で金を使うのがもったいなくないです。 欲しいと思った物以外金を使うのがもったいないのです。ちなみに奨学金もまだ270万円あります。 例えば、家電や家具、物、本、DVD、ゲームなどです。 例えば、牛肉はスーパーで売っている高めの牛肉や、レストランで提供されるステーキの牛肉、米沢牛・松坂牛クラスなど高級の振り幅がすごいですが、こういうものを買おうとするとき、食べようとするとき、安い肉を買います。なぜかというと、スーパーで売っている安い肉と300円高い中堅の肉を比較して食べたことがありますが、際立って変わらない、牛肉は安くてもどっちにしろそれなりにうまいです。なので中堅を出す必要が無いです。一度でも中堅以上を求めてしまうと、下位のものに戻れなくなります。1度そういう「上を上をと求める世界」に入ると、常時継続的に病みつきになり「味覚が狂い中堅物~高級物しか食いたくなくなる」と思いますので、「中堅以上・最高級というのは知らなくていい世界」だと思い、誰かに誘われたとしても、価値観が根付いているため絶対いけません。そしてピンキリの深い世界で上を上をと求めているとキリがないと思いますし、本当に底辺の肉と最高級の肉を比較しない限り、際立って味は変わらないという経験則からです。 他の例だと風俗です。60分1万5千の激安ソープから7万まであります。家賃が3万の物件から15万の物件まであります。天ぷらを食べるにしても、てんやの500円~銀座の老舗店の5000円まであります。 スーツや皮靴もピンキリです。芸能人が見栄やちょっと稼いでるからといって家賃20万~200万円もするマンションにわざわざ住んでいるのとがいい例です。 また、渋谷に行ったり、風俗、銀座などに行く等に行くことに価値を見出せません。スポーツ音痴で、人付き合いが苦手なので、友人と過ごしたりする以外、同期とフットサルなど集団で休日を過ごすのも嫌です。ゴルフは興味は少しだけありますが、スポーツ音痴ですし、金も相当かかりますし、車も持っていません。 また、同僚や同期に誘われて飲み会に行く時は金を消費しても付き合いなのである程度消費してもしょうがないので我慢しますが、基本は居酒屋、個人飲食店に行きません。1品700円もする小皿の料理や、生中ジョッキ400円~500円、鍋で1,500円など信じられません。同僚や同期は私とここでも金銭感覚がずれてるのかばんばん頼みます。そして大勢で行くと割り勘を請求されるのでとんでも迷惑です。それならば松屋で牛丼大盛り食べたほうが十分だという金銭感覚です。これを頼んだら、牛丼の大盛りが3杯分食えるからもったいなすぎるなど考えてしまいます。 にも関わらず、周りは「ここでこのくらいの値段は妥当」「こんなのもかっこよく払えない社会人としてださいよ」と、私の価値観からでは想像の出来ないことを言います。 以上が私の持論と価値観・金銭感覚です。 でここまでなら「タダの愚痴かよ」と思いますが、問題はこの後です。 こういう私のような思考や価値観をしている人は私の会社の同僚・同期にまずいないため、かなり変人扱いされます。 「海外旅行に行かない」「銀座に行ったことが無い」「百貨店で買い物したことがない」「おいしいお店を知らない」「ゴルフをやったことが無い」「金が無い」など言うと口をそろえて「言い訳」「見聞が狭い」と言われます。 本人たちにとっては、そういう金銭感覚が普通だと思っているのかもしれませんが、私からすると、金もないのもそうですし、私の金銭感覚や価値観を全否定された気分です。 私のような金銭感覚・価値観を持つ人間は、この会社にいないから場違いだと言われた気分かもしれません。 私の会社のようなレベルの大企業の社員でも「見聞の広さ」や「見栄」を重視するようです。 そもそもうちの会社にいる人の9.5割は全員高学歴の金持ち育ちorお金に困らせられたことがない家庭出身で、奨学金はそもそも借りている者は一人もいません。私くらいです。 私は、非金持ちのMARCHです。 同僚や同期は毎日ランチに500円~2000円を平気で使っています。そういうレベルの店に食べに行きます。金がない私には一緒について言っても金がなくて食えないこともあります。 なので私は昼飯はコンビニのカップ麺とおにぎりや松屋の牛丼で文句無く必要十分です。 周りに口には出しませんが、高い店に一緒について行くのが辛いです。 以上長々となりましたが、 私のような人間は、『大企業勤め』には恐らく絶滅危惧種的少数派かと思いますが、 上記についての感想や、「こういう思考は直した方が良い」「こうした方があんたのためにいい」「ここはおかしい」などの御意見をお願いします。また、私のような人間、貧乏人は大企業勤めには向かないでしょうか? 場違いでしょうか? 大企業勤めの方は本当の庶民の感覚が全くないように感じますが、如何でしょうか? 念を押しておくと、決して私は意識的にケチをしている訳ではなく、感覚的にこういったことが自然と染みついています。本当に必要な時以外、自然に高いものを買うことを避ける感覚が自然についています。そのため、もちろん金があればそれはそれでうれしいですが、彼らのように肉にしろ魚にしろ中堅以上のクラスのものしか求めず、金に溢れ、金銭感覚や価値観が私と180度異なる彼らに特別憧れはありません。 ただ、私の価値観や金銭感覚上、彼らの行動や金銭感覚が信じられないだけです。

  • 国語の質問(難)

    現代の都市に暮らす人びとの心は、都市の建物、雑踏、シッソウしたり渋滞したりする自動鮮、ショウ・ウィンドウや街旅 のテレビ・スクリーンに映し出される映像、郊外住宅地の風景、携帯電話の小きなディスプレイ上の文字列、小さなイヤフォン から流れつづけるリズムやビートといったものたちのなかにトウエイされ、表象されている。それだけではない。そこに暮ら す人びとの心的生活が、そうした事物に規定され、それらを通じて現れ、それらなしにはまったく別棟のものになるであろうと いう意味で、それらの事物は、そこに暮らす人びとの心の一部なのだ。 物質が見る夢、物が抱く感情、メディアのなかの記号やイメージとともに明滅する心や感情が、都市や社会のなかで私達 を捉え、私(たち)によって生きられる。私たちが見てきたのは、そのような場としての都市や社会ではなかっただろうか。 物質が夢を見る。あるいは、心が物の中に、あるいはものを通じて現れる。こうした一見すると奇妙な物言いは、ヴアルター・ベンヤミンやマーシャル・マクルハーン、ミシェルフーコーの思考を通過したあとの社会学的思考にとっては、必ずし も奇異なことではない。 、′ たとえば都市をめぐるベンヤミンのテクストでは、商品や室内、パサージユやその内外をイロドるモードといった、十九 世紀から二十世紀はじめの都市空間に見出される端的にモノである存在群は、そこに人びとの意識が表象されるだけでなく、そ れ自体が集合的な心的現象であるかのように取り扱われる。 芸術家が作る建物からエンジニアが作る建物へ。絵画から写真へ。これらは建築やイメージを「精神」から解放していくかの ように見える。だが、実際、そのようなテクノロジーとともに現れたパサージユやプルジョワジーの室内、博能会やパノラマと いった事物が示すのは、それらの事物を生み出した人びとの意識や欲望である。そしてそれらは、単に人びとの意識や欲望を表わしているだけで ではない。そのようなテクノロジーに支えられた事物はまた、積極的に人びとの意識や欲望を駆動し、作り出す ものであり、その意味で入びとの意識や欲望の一部をなしてもいるのである。 マクルーハンは、「メディアはメッセージ」という警句的教現によって、種々のテクノロジーが社会のなかに生み出す行為や 関係のペース、スケール、パターンへの注目をカンキしただけではない。彼はまた、みずからの警句をさらにもじった「メデ ィアはマッサージ」という言葉で、そうしたテクノロジーが生み出すペース、スケール、パターンが人びとの意識や感覚に働き かけ、たとえば「活字人間」や「テレビ人間」のような、特定の思考や感覚の形式を備えた人間類型を生みだすことに注目した。 マクルーハンによれば、メディアとはそもそも「人間の拡張」を可能にするものである。活字人間やテレビ人間にとって、活字 やテレビ、そしてそれらが可能にする意味や表現やイメージの空間は、人間に外在するものでほない。それらは拡張きれた人間 の一部なのである。同じことは、鉄道、高速道路と自動車、高層ビルといった〝メディア〝についても言えるだろう。現代の都 市に暮らす私たちほ、〝鉄道人間″や〝自動車人間〝高速道路人間〝や〝高層ビル人間〝であり、私たちの意識や思考、精神は、そうした〝拡張された身体″と相関した存在でしかありえない。 また、フーコ-が監獄の誕生で示したことの一つは、監獄や教室、兵舎のような物的施設の空間内の配置が特定の運用規 則と組み合わされることで、その内部に位置づけられる人びとのなかに、「不断に自分を監視し、管理する自分」という という特異 心的メカニズムを生み出すと同時に、そのような心的メカニズムに支えられた身体間の相互関連のなかの存在へと、人間を形成 していくということであった。「身体の監獄たる精神」という監獄誕生のなかの言葉は、身体に内在する多様な運動性が精神を蝶番にして規律・訓練されていくことを示しているのだが、その精神は人びとの身体のなかにだけあるのではない。監 獄の建物に、そして教室や兵舎の建物にそうした精神が宿り、身体を攻囲しているのである。 十九芸世紀以降の都市と社会を特徴づけていることの一つは、こうした物質的であると同時に社会的な世界のなかに、高速交通や高速通信を可能にするメディアに媒介された、それまでに存在しない「場」や「地形」が生み出されていったとい うことである。 たとえば、鉄道敷設は、その沿線の空間を線状に結び付けていっただけではない。以前であれば五感によって経験されて いた移動する途中の空間が、そこでは車窓の外を飛び去っていく「風景」という像として経験されると同時に、「移動する車内」と という新たな場と、居眠りや読書、とりとめのないおしゃべりや、車内の中吊り広告をほんやり眺めるといった、新たな行為や経験の様式を作り出す。して、そのような行為や経験を通じて、鉄道路線で結ばれた駅の数珠状の鎖列を軸として国土や地域や都市をイメージする空間了解の形式が共有されていく。と同時に、通勤や通学、業務のための移動などの活動を、鉄道の運行時間にしたがって管理・調整するという、時間的・空間的な行動の管理も、日常生活を送るための必要な技術として浸透 く。それは、社会化された機械装置を軸とするものへと社会的な空間や時間が編成されて、そのような機械装置とそれに媒介さ れた空間・時間のなかで、身体の集合的な活動が編成されていくということ、それを通じて新たな質や構造をもった「場」や「社会の地形」が、社会生活の物質的な基盤であり、かつまた時空間上の広がりをもったイメージとして、成立していったというこ とである。私たちが知っている「都心」や「郊外」という場は、物質性とイメージと、そこでの人びとの行為や問係のスイコ ウを通じて編成された社会の地形のなかに現れるのであり、そのような地形のなかで固有の実定性を与えられるのである。また、映画のうな映像メディアや、電話やテレビのような電気的な通信メディア、グラビア化した雑誌のようなプリント、メディアの普及と浸透は、地理的な場とは異なる言語やイメージの伝達の場を、聴覚や視覚という物理的かつ身体的な位相で存在することを可能にすることで、新しい社会的な環境を形成していくものだった。こうしたメディアは、文字や絵画を媒体とするそれ以前のメディアに媒介された環境とは異なる遠近感、身体感覚、現前性をもつ場を、社会の中に切り開いていく。そこでは、ひとびとにとって有意味な社会の広がりが、みずからの身体の近傍に経験される広がりだけでなく、種種のメディアを通じて拡張され、自己や生活の理想的なイメージメディアもメディアを通じて日々降り注ぐファッショナブルな幻像のなかに求められるようになる。そして「経験」「結びつき」「理想的」といった言葉が意味するものも、かつてそれらの言葉が意味していたものとは異なるものへと変貌する。それはつまり、「世界」や「社会」に対する人々の了解と想像の形式が変わるということ、端的にいって「世界」や「社会」のあり方が変わってしまうということだ。都市の「境界」という伝統的には地理的空間上に見いだされる存在すら、そこではメディア媒介的な現実の位相において思考され、経験されるのである。私たちが生きる世界は、十九世紀以降に出現したこうした諸メディアが切り開く新たな物質性の次元も、その素材として取り込むとこに成立している。 映画スタジオにおいては、器械装置が現実の奥深くまで侵入しており、その程度たるや、現実の純粋な姿、器械装置という異物から解放された姿のように見えるものはある特殊な処理の産物、つまりその目的のために特別にセットされたカメラで撮影したものを、同種の他の撮影フィルムとモンタージュした結果なのである。器械装置から解放された現実の姿は、ここでそのもっとも人工的な姿となった。なまの現実の光景は、技術の国の青い花となった。ここで述べられているのは、映画というテクノロジーのなかでは、器械装置が現実の構成に深く浸透しており、最も自然に見えるものこそが器械的な技術や処理を通じて現れてくるということだ。そして、映画というテクノロジーとその表現が、大衆的な娯楽を通じてひとびとの日常的な環境の一部になっていくとき、映画をつうじて現れてくるさまざまな映像は、ひとびとにとっての現実の一部を構成していくようになることができるだろう。このとき、そうした技術に深く支えられた技術の国では、なまの現実なるものは伝説の青い花のような、決して手の届かないロマン主義的な憧れの対称という位置を、技術化された環境のなかで、夢みられるものとしてあてがわれることになる。 問題1 それらの事物は、そこに暮らす心の一部なのだとあるが、そのように言える理由として、最も適切なものを選べ。 1人々の欲望から生み出された都市の事物は、一方で人々が抱く欲望の多様性を奪う拘束となるから。 2都市の事物は、そこで暮らす人々の心の反映であるとともに、人々の欲望を現出させるものであるから。 どちらが正しいか解説お願いします。

  • 自分の考え方が正常か異常か知りたい

    相手が望んでいても自分が望まないことは施さず、相手が望んでいなくとも自分が望んでいれば施す。こういった行為は独善やエゴというのでしょうが、現代社会の至る所で散見されており、位置付けとしては悪いものとされている認識です。 しかし、例えば産後直後の赤子の遺棄といった昨今の事件などで、事件そのものに一切関係の無い人間からの意見として、母親を悪とする意見や赤子が可哀そうと言った意見は、好意的に捉えられることが多いように感じます。 この2つの話について、同じようなことをしているのに前者は悪、後者は善と扱われることが不思議でならないのですが、私の認識がおかしいのでしょうか。 特に、後者の赤子が可哀そうという意見について、勝手に赤子の境遇を想像し哀れに想うことの目的は、そう感じる自身の精神を愛する故だけのことだと思っており、極めて気持ちが悪いと感じています。 事実は事実としての価値でしか無く、それに対してどう感じたかということに良い悪いも無いというのが私の考えなのですが、この考えは一般的な意見と一致しない結論を出してしまうことが多く、その都度自分の意見を表現しないことを選んでいます。 ここまで読んで頂いた皆様は私のような考え方をどう感じますか? 教えて頂けると幸いです。