解決済みの質問
こんばんは
結論をいいますと「どっちもあり」だと考えます。詳しくはtaokantokuさんのご質問「藤原」「白河」で回答しています。
しかしどっちが決定的かというならば、白河上皇の台頭、といえます。
武士の台頭などによって、社会は次第にそれまでの母系社会から父性社会に移行していきます。摂関政治は、天皇の母方の父(外祖父)として天皇の後見者としての地位がモノをいう政治ですね。したがって、#1さん、ご指摘のように頼通の娘が将来の天皇となるべき子を産まなかったのが没落の第一歩といえるでしょう。
決定打は、天皇の父として上皇が(摂関家に代わって)天皇を後見する白河院政の開始ですね。これによって、母系重視を背景とした摂関政治は、実質的な政治権力を失い形式的存在となっていきます。
投稿日時 - 2005-12-28 03:33:35
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ベストアンサー以外の回答(4件中 1~4件目)
どちらともいえないがB→Aの順で進行したように思います。
しかしこれは没落の原因ではないと思います。むしろ結果かと。
岩波新書「平安王朝」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004304695/249-7932277-6597123
という本の中で、面白い考えが紹介されていますので要約すると、
「そもそも摂関政治というのが『本来天皇親政であるべきを、藤原北家に乗っ取られた状態』と考えることに無理がある。むしろ、天皇家内部の対立があって、それに結びつく形で藤原氏の内部対立も進行した」というものです。
確かに平安朝というものはそもそも桓武天皇からして藤原式家とのつながりが深く、その式家が没落したとき北家が出てきたわけで、はじめから天皇家と藤原氏の連合政権みたいなものです。よく言われる「延喜・天暦の治」についてもこれは本来摂政となるべき藤原氏の人物が早世したのでやむを得ず天皇親政になってしまった、という分析がされています。ただし、藤原氏の権力というものはその性質上天皇あってのものですから、あくまで天皇家がそれを必要とする限りにおいてのものです。
保元・平治の乱において、天皇家内部の対立と摂関家内部の対立(これはむしろ同じものの2側面にすぎない)からはじまって、結局は政争が暴力的な解決へと向かった時点で、時代はいわば政治謀略から直接的暴力による力の政治に向かいます。そうなると藤原氏の力、というものはそもそも政治力だけなので役に立たなくなる、とこういうことでしょう。いわば都市貴族による支配システムが既に壊れ始め、下級貴族出身の武士の棟梁たちによる地方支配が始まっていたわけで、当初はその権力の淵源を都=朝廷においていたのですが、これら暴力的な対立の中で都市貴族の内部抗争に加担する中で武士たちが自己の力=暴力そのものに目覚めていった。そうするとそもそも地方を直接支配しているのは自分たちだから、あんな連中いらね~や、ってなことになっていった、ということなのでしょう。
投稿日時 - 2005-12-28 07:06:07