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いのちって何?生きてるってどういうこと?

masyuraの回答

  • masyura
  • ベストアンサー率17% (8/47)
回答No.6

そもそも、厳密に「ひとつの生命」というものを定義できるのでしょうか? たとえば、貴方は自分という存在にどこまで含めますか? ○肉(臓器)や骨 ○血 ○体内の細菌 ○体内の無機物 ○服装 ○記憶 他にもいろいろあると思いますが、きりが無いのでこれ位にして・・・ 例えば、腸内の細菌は生まれてきた後入ってきたものですが、それらによって消化吸収が助けられています。つまり、体内の細菌をすべて殺してしまったら、人間自身も生きていくことは困難です。 寄生するものと寄生主とが協力し合うのは普通のことです。最近の学説では細胞内のミトコンドリアですらもともとは別の生命体であったという話です。 自分という存在ですら厳密かつ明確に線引きすることは無理なのです。明確に規定することは出来ますが、それはあくまで規定する人の任意の線なのです。 僕もきちんとした定義といえるようなものは持っていません。しかし「いのち」を考える時には(もっと言えばすべての定義について考える時ですが)、それに付きまとう常識や固定観念は(「いのちは進化するはずだ」とか「いのちは尊いものだ」とか「自然発生するものでなければ生命ではない」とか…)まずは切り離してみるべきだと思います。それでは真実にはたどり着けません。 言葉と生の現実は一対一で対応はしていません。「いのち」という言葉あるからといってそれにぴったり当てはまる現実の「何か」が存在するとは限りません。それに「いのち」という言葉の「定義」ですら一つではありませんから、nanashisanの書かれた様な「いのち」もありでしょう。

mori0309
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > 「ひとつの生命」というものを定義できるのでしょうか? 屋久島の樹齢7200年の縄文杉を見ると、それは単なる細胞の集積体以上の何かである という印象を強く受けます。詩人や画家ならば、そこに数千年の風雪に耐えて今も生き長ら えている明確な「ひとつのいのち」を感じ取るだろうと思います。(屋久島に雪は降らない でしょうけど) ボール状になってゆっくり移動する数千匹のキンメモドキを新聞の写真で見ました。 これになると、ひとつの生命とは言えないけど、やはり何か単なる群れではないものを 感じます。 芸術家が(一般人でも)直覚できるものを、生物学は存在しないという。私は近代科学の 基調である「森羅万象はどんなに壮大に見えても細部の性質や法則の必然的展開形にすぎ ない」というのが、どうしても納得できないです。 > 自分という存在ですら厳密かつ明確に線引きすることは無理なのです。 それでは、この宇宙には純粋な客観的存在というものは、何もなくなってしまうのでは ないでしょうか?「認識主体を想定しない真の客観的実在は存在しない」「対象は主観的に しか認識されない」これは哲学では常識なのかなあ。分かりませんけど。 簡単なHPを作りました。参考に、ご覧いただければ幸いです。 http://www14.u-page.so-net.ne.jp/da3/mori0506/

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