解決済みの質問
新唐書の東夷伝-日本伝(220巻列伝第145東夷・日本)の最後の方で「・・・仁明直開成四年,復入貢。次文,次清和,次陽成。次光孝,直光?元年」という記述があります。
光孝天皇の在位が830年 -887年です。遣唐使の廃止が894年、唐の滅亡が907年ですから、遣唐使の廃止はグッドタイミングだったわけです。
この後、「遼史」2巻の中で、天賛4年(925年)9月21日「日本人、契丹に来る」と言う記述があり、25巻では、大安7年(1091年)9月14日「日本国、鄭元・鄭心および僧応範(明範)ら二十八人を遣わし来貢する」と言う記述があります。
「金史」15巻では、貞祐5年・興定元年(1217年)12月5日「日本国大宰府民七十二人を乗せた船が即墨(山東省)に漂着。金、食糧を供給して本国に還す」とあります。
「宋史」には日本国伝がありますし、また「元史」にも208巻列伝第95・外夷一・日本國と言う項があります。
五代の後梁・後唐・後晋・後漢・後周についての記述は分かりませんでしたが、中国の王朝における日本の呼び方は「日本」で統一されていたと思われます。
投稿日時 - 2005-09-30 14:51:10
お礼
お礼が遅くなってしまい、すみません。
詳しくありがとうございます。納得できました。
投稿日時 - 2005-10-03 14:12:48
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ベストアンサー以外の回答(3件中 1~3件目)
”誰に”呼ばれていたのでしょうか?
日本国内では統一国家という概念がまだないので
”国”といったら各地方のことです。
もともとは国内的には大和(やまと)が国号で、
「やまと」「おほやまと」といい、
漢代以前の中国では「倭」と呼び、
中国と修交した大化改新頃も、
東方すなわち日の本の意から「日本」と書いて「やまと」と日本人は読んでいたようです。
それが奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになりましたが、
国家の概念はだいたい中世後期ごろに成立したと
考えるのが一般的です。
つまり”わが国”という意識が民衆の間にはなかったわけで、
自分の国といえば、三河だったり甲斐だったりと故郷の国を意味したわけで、この時代、異郷人と外国人はほぼ同義です。
日本国の古い中国語読みで nzyet-pwun-kwuk から
Chipangu に変わり、マルコ・ポーロがジパングとして広めたことから
16世紀にはヨーロッパでは
日本はジパングつまりJapanということになりました。
しかしもちろんそれ以前は日本の存在を知りませんから名前はありません。
投稿日時 - 2005-09-29 23:23:56
お礼
詳しくありがとうございます。
補足になりますが、調べていく過程で倭から日本に変わった、というのを多く見たのですが、その間に何か別の国名があったような気がして質問させていただきました。
回答を見た中では中国、ということになりますね。私の勘違いでしょうか…
投稿日時 - 2005-09-29 23:41:08