• ベストアンサー

内に目を向ける、外に目を開く。

sokuraの回答

  • sokura
  • ベストアンサー率38% (40/103)
回答No.9

 ご無沙汰をしています。内と外、ですが、これは、近代の大問題だったようです。いわく、「自己の確立、自立」などが、個々人に求められたからです。  しかし、現在では、そんな確立されるべき「自己」から出発できるのだろうか、という疑問がおき、むしろ、「自己と他者」、「自己と社会、世界」と分ける思考自体を、疑うことから、話が始まるようです。  「自己」とは、たまたま、意識を意識たらしめるために、一時的に名前を付けたようなもので、意識が最初から、「私は、私である」とは、言いません。また、いつから日常レベルで「私が、私である」ことに疑問を抱かなくなったかも、遡って辿ることは出来ません。出来ないと思います。  ということは、「自己について考える、あるいは、自己を意識する意識について考える」という行為、つまり、内省と呼ばれるものは、内実は、「意識のへりを堂々巡りをしている」ということではないでしょうか。  意識にとっては、「私」も「私の肉体」も、常に「外」です。「意識が意識の内に入り込む」ということは出来ません。意識を意識としてしか志向出来ないのだろう、と思われます。  つまり、意識も「もの」と同じような存在レベルとして考えれば、「意識として在る」とは言えます。しかし、それは、「存在では否い=無」としてある、と仮定しなければいけません。探せば、どこにも在ってどこにも無い、のですから。  例えば、読書という行為、音符を見て音の流れをイメ-ジさせる、というような 行為を仮定してみてください。「言語」としての文字や音符はある。しかし、それからイメ-ジされる「考え」や「音楽」はどこにあるのでしょうか?脳の中?  私は、自分の身体を取り囲んでいる「雰囲気」全体だと思うのです。だから、身体が動き、思わず頷いたり、口ずさんだりするのではないでしょうか?  それでは、そうした「無」の世界に入り込むことは出来るのでしょうか?  出来ません。否いものは「無い」のです。私たちは、意識=考える、という行為において、存在のふちをぐるぐる歩いているだけなのです。    したがって、内に目を向けるとは、存在の中に入り込みたいという、ノスタルジックな行動であり、もう存在に帰れない孤独な旅であるが故の錯覚でもあるのです。  意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。  もう、内の中へ帰ることは出来ません。ただ、「自己」をすら、人は「外」から辿るしかないのです。         

caballero
質問者

お礼

今回もお世話になります。以前の質問で、「恣意である」というご助言頂きました。ずいぶん考えました。sokuraさんが来てくれたこと大変ありがたく思っています。 >私たちは、意識=考える、という行為において、存在のふちをぐるぐる歩いているだけなのです。  そうです。まさにそういう感じです。そして、意識の中などというものはありません。あったとしても、それは内省の世界であり、外世界と同じ外の世界です。自己は外宇宙の産物です。すべては内であろうが、外であろうが、両者同じ世界です。 >。「言語」としての文字や音符はある。しかし、それからイメ-ジされる「考え」や「音楽」はどこにあるのでしょうか?脳の中?  これは、言葉だと考えています。例えば「概念」という言葉。まさにそれはあります。 >それでは、そうした「無」の世界に入り込むことは出来るのでしょうか? 出来ません。否いものは「無い」のです。  果たして本当にないのでしょうか?僕は、自己を含めた外宇宙は、影であるかもしれないと思っています。内側の影です。たしかに影の中には何もないです。しかし、本当にないところに影は立ちません。 >したがって、内に目を向けるとは、存在の中に入り込みたいという、ノスタルジックな行動であり、もう存在に帰れない孤独な旅であるが故の錯覚でもあるのです。  すごく分かりやすいです。僕の言う事ががたがたにもかかわらず、これだけの共感となって帰ってくるところがありがたいです。 そうですよね、しかし、僕というからには帰りたいわけではないのです。知っておきたい、ということでしょうか。僕と言わない事はどういうことか? >意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。  有限なのに尽きない訳が、あると思います。sokuraさんは、その訳についてもしよろしければご助言いただけないでしょうか?ぐるぐる巡るから尽きないということですか? >もう、内の中へ帰ることは出来ません。ただ、「自己」をすら、人は「外」から辿るしかないのです。  そうです。僕が帰ることはできません。ただ、 ここに、脱我のところ、何もないわけがないと思います。    僕の質問をくんでくださって、本当にありがたいです。僕が考えて整理すべき所をsokuraさんが答えてくれる事で僕がわかる。嬉しいにつきます。そして、その回答には新しい展開があります。 ありがとうございました。

caballero
質問者

補足

sokuraさんは、もう得る者を得ます。 今日はたまたま成人の日(1/14)です。たまたまですが、今日ココを締めようと思います。 >>意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。  今、あなたがなんて解っているのかが解ります。あなたは、このとき、解っていいる事を解っていなかったのでしょうか?そんなことはないです。 汲めど尽きぬ有限の理由について言います それは、数えれば数えるだけあるからです。数えた時点でそれは限られるのです。 それを意識した瞬間に、それは限られます。しかし、無為に見た時、すべてが見えます。 SOKURAさんは言われた。 「ないものはない。」 この言葉、今は僕の者です。これは真です。 ないものはないのです。つまり、「あり」です。sokuraさんはすでに得ていた。

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