- ベストアンサー
カントについて
カントがもの自体と現象を分けたのはどういう意図があったのでしょう。 単なる不可知論でもなく、また形而上学的欲求をカントは否定していませんが。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
関連するQ&A
- ヘーゲル・カントの哲学
私は現在大学でへ-ゲルとカントについて学んでいます。ですが、どうも自分なりに次のことが理解できずに悩んでいます。よろしければ分かる方がいらっしゃったら教えてください。 -ヘーゲル- 『経験』にかんすることで、経験の成立過程とそれに伴う真の主体とはなんなのかがよくわかりません。 -カント- 『現象』にかんすることで、ア・プリオリとか経験的自我とか超越論的自我の関連が難しいです。とくにその成立過程についておしえてください。 漠然とした質問で答えずらいと思いますが、よろしくおねがいします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 古い話、カントや現象学のことです。
古い話、カントや現象学のことです。 1. アプリオリによるいわば仮想世界と自己に終始することで是とされますか? 2. 仕方ないと思われていますか? 3. いわゆるものというか、自体にアクセスるという事にまだ諦めていませんか? 4. そのためにどのようなチャレンジをされていますか? 5. 信仰によれば可能ですか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 不可知論
知りえない わからない 想像もつかない 単語として流布してはいるものの、その単語が指し示す内容が、その存在を否定している単語について、不思議だとずっと思い悩んでます。 「共感」と言う言葉に共感できず、「不可知」という言葉に共感を覚えます。 しかしながら妙な感覚です。「不可知」の対象に対して「知」っているからこそ、「不可知」と判断しているわけですが、そもそも「不可知」と言う判断はありえないのではないのか?と思い悩んでおります。 知りえないものを認識、思考の対象とする「不可知論」はロジックエラーではないのか? もしくは、単純に、言語として準備されていない対象も数多くこの世には存在しているのだ、というのが「不可知論」の中軸なのでしょうか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 哲学の現在について
哲学の現在について。 ヒュームに代表される、「現象主義」って、認識論の到達点、真理?をめぐる哲学の最終的な結論だとぼくは思うのですがどうでしょうか? それ以降の哲学は、なんだか あんまり意味のないトートロジーに思えてなりません。 現象の域を脱し得ないという「理性」の限界を無視して、語り得ない、答えの出ないものについてあーだこーだと終わりのない堂々巡りの議論を続けているだけのような気がします…。 つまり、現象主義的な結論によって認識論は既に一つの決着を迎えていて、哲学の一つの大きな流れはもう終わっちゃってるのかなーと思うのです。そんで、あとは解釈や可能性を細々と提出するだけ、みたいな。 哲学に限らずあらゆる学問は、大前提として、「仮の真理」にしか到達できない擬似問題じゃないのかなと。 以上、哲学初心者のぼくが哲学(というか、認識論?)の現在についてなんとなく思うことなんですが、哲学に造詣の深い皆さんはどう思われますか? 勉強不足で、かなりトンチンカンなことを言ってるかもしれませんが、その辺は大目に見て貰って、バカでも分かるよう優しめにご教授頂ければ幸いです。 長文失礼しました。 タグ:不可知論 懐疑主義 懐疑論 カント 独我論 心の哲学
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- カント『純粋理性批判』入門(黒崎 政男著)
カントの理性、悟性、感性の概念が分からないと質問した時、「お勧めの入門書」をリクエストして読みました。 でも、これ私にはまだ難しかったです。 まず上記3要素の定義ですが、これはだいたい合っているのではないかと思います。 感性>感覚器官を通じた現実存在(仮に感官がそう認識するところの)の認知 悟性>(≒知性)概念的に考え悟ること 理性>総合的な考え(?) ちなみに古くは、 知性>インスピレーション、霊感、直観力、察知力、知識(人間の感官より上のもの)(?) で、どうもカントは実存在は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンプンで分かりません。 世界が感官で真かどうか分からないものであるのならば、感性を頼った思考もすべて真かどうか分からないのではないでしょうか? 何が「コペルニクス的転回」されて、「純粋(?)」「理性(?)」はどう「批判」されたのでしょうか?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- ニーチェとカントの出会い って?
ニーチェとカントの出会い? ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~ デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。 理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。 そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。 これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。 そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。 そのほか ご感想やご見解をも述べてください。 質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。 自由なご批判をどうぞ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- ソクラテスの「知は徳である」
ソクラテスは、 「真の知あれば徳、すなわち正しい行為に 導かれる」 としているが、何かしらの知識に関して 正と不正の知にもとづいて、意図的誤用の可能性は 否定できないのではないかと思いますが、 これについてどう思われますか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- ニーチェとカントの出会いって?
ニーチェとカントの出会い? ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~ デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。 理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。 そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。 これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。 そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。 いい線を行っている内容であると思います。 わたしの言葉では 《あやまちうるスサノヲ人間語 と あやまち得ざる〔とみなされた〕アマテラス普遍語(科学語および人格語)とのえも言えない融合》ではないかと。 質問者に物言いがあるとしたらそれは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなく そうではなくそのことが 社会制度としても――つまり 必ずしも国家に頼ることなくあるいは国際連合などといったメタ・アマテラス普遍語次元の機関に頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの共同自治の体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることにあります。(インタムライズム)。 自由なご見解・ご批判をどうぞ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 「要請」 ・ 「二律背反」について
この場をかりて毎度お世話になってますm(__)m カントの「要請」について聞きたいことがあります。 カントは自由・不死・神の要請について述べていますが、これらの要請の理論を述べたきっかけは何なのでしょうか? あと、少し「要請」からはずれますが… 「純粋理性批判」の二律背反についてなのですが、これにおいてカントは合理論批判をしようとしたのですよね?!(正確にいうと合理論的宇宙論批判) そういうことになると、合理論はもともとどういう考えをしていたのでしょうか? 二律背反で言っていること(定立と反定立)自体はそこそこわかるのですが、どこが合理論批判なのかよくわかりませんでした(^^;) わかる方お願いいたします・
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- エピクテトスの言葉について質問があります。missing art of assentについて教えてください。
- エピクテトスが述べた「reservation, to the common good, and that they are in proportion to actual worth」というフレーズについて質問です。
- エピクテトスは我々が衝動を制御することについて言及していますが、省略された部分についての意味がわかりません。
お礼
どうもありがとうございます。 私の存在とは無関係に他者が存在することを明確にしたかったのではないでしょうか。 でなければ実体も道徳律も存在する場所がなくなりますよ。 何しろ私が認識する限り対象は全ては現象なわけですから。
補足
それと、経験を削ぎ落とせば、 無限の可能性としての「想像」が残ると考えます。