• 締切済み

「善」について

私は大学で哲学を学んでいます。 それで今道徳についていろいろと研究しているのですが、その中で「善」や「善い」と言うものがしばしば出てきます。 皆さんは「善」とは一体どういうものだと考えますか?

みんなの回答

回答No.7

善とは、単純ですが、利益になるということではないでしょうか。 善を定義する者と、その善を実行する者が同じであれば問題は少ないのですが そうでないからややこしいことになると思っています。

  • shino911
  • ベストアンサー率13% (34/259)
回答No.6

御質問の趣旨に沿うかどうかわかりませんが、 過去に、「善」「偽善」についてのQ&Aがありましたので、 参考までにご紹介いたします。 (すでに閲覧済みでしたら済みません。)

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=96545
  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.5

 「善悪一如」とされ、本来、善と悪は共に人の心の中に具わっている用きであり、別々なものではない、ということになっております。  「悪」を否定すれば、「善」を否定することになるということでしょう。  「善」と「悪」とがあるのが、人なんです。それを、{善」だけを説いて、善人面するから、偽善者なのでしょ。「悪」を隠しているに過ぎません。  道徳の理想は、「最高善」でしょ。正しい行い、良い行い・・・、所詮、それは、自己満足であり、それで満足しているようじゃ、偽善者の傲慢な姿です。他人を、本当に助けていることになっていないのであります。  つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世も因果を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。  正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境地に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと説かれています。  このように正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、「最高最善」の生きかたとなるのです。  如何ですか?

shunpe
質問者

お礼

参考になります。ありがとうございます。

  • tokuse
  • ベストアンサー率35% (6/17)
回答No.4

考え方の違いで、いくらでも善悪の基準は変化します。 時代、社会、人の心の中にのみ善悪を規定する観念が存在し、 伝播したり、語り継がれたりしながら観念は心に在りつづけます。 ですので、ある一面から善悪を語ることから万人に適用しうる善悪の定義は なされないことが予想されます。 (もちろん強いカリスマが全世界にひとつの善悪観を届かせれば別ですが) じゃあ、善とはなんなのかと私の考えを述べますと、 自分の中で気持ちとして、予感として、 これからする自分以外の人間や社会とのふれあい・なぐりあいに対して まんべんなく良いと認められるだろうと予想される行動が善なのだろうと考えます。 善だと感じる行動に挑めるか挑めないか、という当然の人間の迷い多き心を制して 思う善に行動できる人間が善なる人と呼ばれるのだろうと。 じゃあ、具体的に善とはなにかといいますと、 私には私の感じる私だけの善があり、皆さんには皆さんの善があるとしかわかりません。絶対的な善悪なんてやはり無いものじゃないこと予想しています。 人間の短い人生では、結果もわからないでしょうけど。 ただ、最近の生活の中で感じることなんですが、 善も正義も思いをもつ自身に対して向けられるべきなのに、 他者にまで「これが正義だ」「これが善だ」と押し付ける人ってやはり、 悪だよなあ、と感じます。はい。 回答書きながらなんですが、 他人は他人、他人に対して良い悪いを言うのは悪になるんでしょうねえ。 つまり、私は気弱でおせっかいな悪人。 では、研究がんばってください!

shunpe
質問者

お礼

ありがとうございます。研究がんばります!!

  • yusyakun
  • ベストアンサー率27% (58/211)
回答No.3

他者を交えて、向上して生きようとすることだと思います。

shunpe
質問者

お礼

回答ありがとうございます

  • gould09
  • ベストアンサー率33% (196/589)
回答No.2

shunpeさん、こんにちは、 自分は、哲学とは関係無い所しか見ていないのですが何故か気になってしまい回答しました。 自分は、かなり昔から善と悪の違いが良くわからなくなってしまっています。 世の中の物事に対して、ある価値基準を作成し、その基準に合致する物を善、しない物を悪としていると思います。 人によっては、この価値基準が一部共通だったり、場合によっては反対の場合もあると思います。 同じ人でも、いろいろ経験をして行くと価値基準そのものが違って来ると思います。 4文字熟語の「塞翁が馬」が面白い例になると思います。 この物語では、いろいろな事件が起きますが同じ事柄に対して、全て「いい見方」と「悪い見方」の両方が出てきます。 自分は、この物語から世の中で起きる事に対していろいろな解釈が有るけれど、事実はどんな解釈とも関係無くただ事実そのものが有るだけではないかなと思っています。

shunpe
質問者

お礼

回答ありがとうございました

noname#4304
noname#4304
回答No.1

あくまでも私個人の考えですので、参考にならなかったらごめんなさい。     忙しい毎日の中でただ時間に追われて過ごしてしまう日も多い訳ですが、 ふと我に返って自分を、自分を取り巻く環境を客観的に見てみるとさまざまな発見があります。 例えば食事中でも。素材が出来あがるまでの手間を考えたり、素材を料理する大変さに感謝したり、お箸やお茶碗を作ってくださった苦労に思いを馳せたり。。。  お野菜の事を言えば畑仕事のご苦労もあるし、突き詰めれば畑の中のミミズにまで感謝してみたりします。 私は全ての物事に感謝し、その気持ちを「行動」に表す事が「善」だと考えています。 それは人から感謝されるような行動に出る事だけを言うのではなく、お食事に感謝して残さず食べ、お茶碗を大切に洗うことも充分に「善」であると思います。 日常を大切に生きる、なかなか難しい事ですが大切な気持ちですね。

shunpe
質問者

お礼

なるほどね。回答ありがとうございます。

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