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京都・奈良はなぜ文化の中心になったのか?

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京都は、なぜ古くから文化の中心となり、栄えたのか?
奈良は、なぜ古くから文化の中心となり、栄えたのか?
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う~ん この質問に答えるには、とても短時間にかいつまんで、説明する自信は正直いってありません。日本史の中でも、奈良・平安が一番未知が多く、謎めいているからです。専門の大学教授ですら、いまだわからないことが、いくらでもあると思います。まず、このあたりから説明する必要がありそうです。なぜ、未知が多く、謎めいているのか。現在この時代を知る、一番の手がかりは、日本書紀にほかありません。日本書紀は、大化の改新に、かかわった 中臣鎌足のちの藤原鎌足ですが その鎌足の子、藤原不比等によって、作られました。しかし、この肝心の日本書紀が近年、かなり製作者の都合のいいように、改竄(かいざん)されているということが わっかってきたからです。
なぜ、かいざんしたのか、一言で言えば、その当時の大国、いまの中国を意識し、また 恐れていたからです。
ちょっと 話がよこ道にそれそうなので、質問の本題に戻りたいと思います。
奈良の前日本を統治していたのは、大和朝廷です。この大和朝廷もいまだ、九州説と、畿内(今の近畿地方)説の二通りありますが、いまだわっかっていません。
ここで難しい話をしても無駄だとおもいますので、・・・奈良は、なぜ古くから文化の中心となり、栄えたか。
それはずばり、蘇我氏の存在が一番です。蘇我氏の先祖は今の奈良県飛鳥地方だとされています。大阪市太子町あたりと言う説もあります。いずれにせよ、今の奈良地方を中心とするということには、まちがいありません。
その昔、日本は蘇我氏と物部氏の2大勢力があり、物部氏は、神を信仰し、蘇我氏は、その当時日本にはない、まったく新しい中国はたまたインドの輸入ものの仏教を信仰し、(蘇我氏が輸入した)天皇をまきぞいに、勢力争いをしており、最終てきに蘇我氏が物部氏を滅びしたことで、天皇の一番の側近が蘇我氏がにぎったことが大きい理由だと思います。(日本はその当時天皇を中心とする国家でありました。)
こうして勢力をもった、蘇我氏が天皇により近ずくため自分の娘または、それにちかい肉親を天皇家に嫁がせ勢力を維持・拡大したことにより、また蘇我氏が信仰した仏教を、天皇家が受け入れたことにより、奈良がその当時の文化の中心となり、栄えた一番の理由だとおもいます。
次に、京都なんですが、これも話が長くなりますので、簡単に説明します。
こうして繁栄した、奈良時代も後半になり、あちこちで、飢饉、干ばつ、疫病などの病気が流行り、国自体がおとろえはじめました。
昔のことです、こうしたことは、国家の場所が悪いとか、誰かの たたりだとか、
思うほかありません。そこで、その当時の天皇が国を、別の場所に移せば、この飢饉からのがれられ、国家を滅ぼさせずにすむといろいろあれこれ、考えたと思われます。新たな場所に、都を移すにあたり、一番参考にしたのが、中国の陰陽五行説。あるいは、風水を参考にしたと思われます。
陰陽五行説といえば、最近ブ-ムで映画化もされた、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明もこの陰陽五行説をとりいれています。
この陰陽五行説に基ずき、一番理にかなった、場所がたまたま、今の京都であったと思われます。こうして、都を京都に移し、藤原鎌足、不比等の子孫 藤原一族と
天皇家の密接な関係が永遠700年あまりもつづいたことが、京都が文化の中心となり栄えた理由だと考えます。
もっとも、奈良から京都に都を移す前に、今の滋賀県長岡・近江に移したことがありますが(長岡京・近江京)ながつづきしませんでした。なぜか、方位が陰陽五行説の理にかなっていなかったいう説がありますが、さだかではありません。
それと、最後につけくわえるならば、その当時の日本は今の中部地方から東はまだ未開拓地でほとんど、人が住んでいません。
それは、日本人の祖先はもともと、中国、朝鮮(韓国)から、九州をへて渡ってきたということらしいからです。(さだかではありませんが)。
日本の東が栄はじめたのは、江戸時代以降のことです。
osakoさんの質問の回答になったかどうかは、わかりませんが
参考にしてください。
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  • 回答No.2
レベル14

ベストアンサー率 17% (993/5831)

古代の外交と現代の外交の大きな違いは まず、現代は文化・貿易など「仲良くするため」の 物であるのに対し古代は他国に対しても知識がなく 劣等感を感じながらの外交であったとおもわれます。 それゆえ攻め込まれるのを恐れ、「強い者を回避する」 という考えがあったのではないでしょうか。 そう考えると内陸の京都・奈良はあるていど安全地帯と 考えられますね。では、他の内陸ではいけないのか?ということになり ...続きを読む
古代の外交と現代の外交の大きな違いは
まず、現代は文化・貿易など「仲良くするため」の
物であるのに対し古代は他国に対しても知識がなく
劣等感を感じながらの外交であったとおもわれます。
それゆえ攻め込まれるのを恐れ、「強い者を回避する」
という考えがあったのではないでしょうか。
そう考えると内陸の京都・奈良はあるていど安全地帯と
考えられますね。では、他の内陸ではいけないのか?ということになります。
これはeityanさんがNo.1で述べられている通り東日本は未開地であったと
いうこと、そして蘇我氏の地盤であったということです。
そしてこれは私の私見なんですが、当時から伝統を重んじていた
ご先祖様たちはたとえ都を移しても畿内より出ては成らないと
考えていたからだと思うんです。その背景は「くに」として
栄えたといいつたえにきくところの「邪馬台国」が
ここにあったのだからとおもいます。
「ヤマタイ」が「ヤマト」になったという畿内説が大前提ですけど。
まぁ邪馬台国にかんしましてはそれだけでhpが作れちゃうくらいの論争に
なってしまいますのであくまでも仮説としてです。


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