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哲学者の死に方

ki61の回答

  • ki61
  • ベストアンサー率32% (85/263)
回答No.7

先日回答させていただいたki61です。 不確かな情報を差し上げてしまったのに丁寧なご回答をいただいて嬉しいです。 ところでまた一人思い出しましたので、お耳汚しながらおひとつ。 石田三成です。 ご存知かもしれませんけど・・ 彼は関ヶ原の合戦で東軍に敗れ捕縛されました。 結局処刑されることになり、刑場へ連れて行かれる道中、 一人の兵卒が最期に、と干柿を手渡そうとしました。 敗れた敵将へのせめてもの情けのつもりだったのでしょう。 ところが三成はそれを、 「干柿は胆の毒だ。体に良くない」 と言って断ってしまいました。 そこにいた兵卒たちは大笑いして 「もうすぐ処刑されるのに、体の心配をしてどうする」 と嘲ったのですが、彼は平然として 「お主たちはそんなに笑っていていいのか、  今にも西軍の残党が私を救いにくるかも知れないのだぞ。  人生は何があるかわからぬのだ、そのときのための用意はするべきだ」 と言い放ったそうです。 結局彼は処刑されてしまいましたが・・ 聞いてみれば確かにもっともなのですが、 さて自分が彼と同じような状況になったらどうでしょう。 多分ばりばり干柿食べちゃうんでしょうね。 「お茶くれ」とか言っちゃったりして(^^;) それと、私のバイト先の社長夫人の世間話に聞いた実話なのですが、 彼女が子供のころ(昭和初期)はまだ石焼芋の屋台がさかんだったそうです。 焼き芋というと、今でも若い女性が買いに行ったり、 食べてたりするとちょっとからかわれたりしますよね。 食べるとおならが出やすくなる→女性にとっては恥ずかしくもおいしい食べ物、 という感じでしょうか。 ある日一人のうら若き女性が石焼芋屋台に焼き芋を買いにいきました。 紙袋に入れてもらって帰る途中にうっかりつまづいて、 焼芋を路上に落としてしまったそうです。 路上に転がった焼き芋を他人に見られてしまったその女性は、 恥ずかしさのあまり家に帰って首を吊ってしまったそうです。 「昔の女性はね、そのぐらいのことがものすごいショックになるほど  慎ましくて繊細だったのよ。私なんかもうヤサグレちゃって、ほほほ」 と社長夫人は言っていました。

jume
質問者

お礼

ああ、石田三成!!聞いたことありますよ、その話。確か干し柿は体に悪いから、水をくれと言ったんじゃなかったかな。去年のNHKの大河ドラマで江守徹が、その場面を演ってましたよ。江守=三成は、そう言った後、兵卒たちに笑われて、つられて自分も笑ってました。そういえば、家康も食中毒か何かで死んだと聞きましたが…。真偽の程はいかに!?記憶が刺激される回答でした。ありがとうございました!! お芋の話は、なんか寓話のようですね。もはや、リアティがない(^^; 以前、お山の分校で先生一人、児童が二人という学校の話を、その先生に直接お話を伺う機会があったのですが、そのじつに牧歌的な雰囲気がリアリティに欠けていたのと似ています。まるでブラウン管の向こうの話のような感じがしますよね。 また、何か思い出したら書き込みお願いします。

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     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  そのほか ご感想やご見解をも述べてください。  質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。    自由なご批判をどうぞ。  

  • (長文です) 建築は哲学ですか?など

    趣味の芸術としての建築には興味があるですが、全くの素人です。 無秩序に多くの質問を並べた上に、抽象的過ぎて成り立っていない質問も削除せずそのままにしています。 乱文です。 質問として非礼ですがご回答を頂けると嬉しいです。 もちろん一部のみのご回答で結構です。 よろしくお願いいたしますm(__)m 建築のデザインには設計した方の哲学的なアプローチがあり、建設物はその産物なのでしょうか? そうであれば、その考察を文章にすることは可能なのか、可能であれば文章にするとどういった感じになるのか、建築家の例をあげて教えていただけると嬉しいです。 また、その哲学的考察は文学や詩や絵画のように、(建築の)批評家による批評が成り立ちますか? さまざまな制約から建築物に設計者の哲学を表現できなかったとしても、設計者はそれに不満を持ち、自分の頭の中では常に考え続けているのでしょうか? 一般的に、建築物の“装飾”や“外観(フォルム。狭義での“形”)”には『意味』や『根拠』が必要ですか? サッカーではプロよりも素人のほうが試合中に無駄にテクニックを披露したり、そういったブラジル人選手が批判されるように、「ただこの形が美しいと感じたから」といった突き詰めていないものはどのような分野でも批判があると思いますが、建築の場合も批判があるのでしょうか? 「奇をてらった」外観、またはそのような建築は存在しますか? 海外建築家による、アルミの筒を並べたような銀色の美術館がありますが、あの外観はどういった考えに裏打ちされた外観なのなのでしょうか? また、その建物を写真でしか見たことがないのですがとても美しいとは思えません。どこが評価されているのでしょうか?また、建築を写真だけで判断するのはナンセンスですか?その場合、なにがどうナンセンスでしょうか? 例えば、“偉大な建築家!”などと呼ばれる場合、彼らは芸術の分野と同じく、“新しいこと”をしているのでしょか? 建築における“発想(または、新しいコト)”とはどういった人によるどういったものがあるのか、例をあげていただけませんでしょうか。 ●●氏は、~を上から吊るすことで、~な効果を出し、その後の~の建築に影響を・・・等。。 (コルビジェ、バウハウス、の存在は知っています) また、その“新しさ”は絵画や文学やファッションや音楽などの他のあらゆる分野における新しさとは何が違い、例えるなら“他のどの業界の新しさ”に似ていますか? 芸術家によくあるように新しいアプローチがなければ「あの建築家はパクりだ」「新しいことを何もしていない」というような辛辣な批判があるのでしょうか? 全国の大学生の卒業制作のコンテストの本をパラパラと見たのですが私の理解できないようなことを考えている様子でした。また、たくさんの模型やイメージ図がありました。 しかしあんなにも多くの学生ですら持っている多種多様なデザインの建築が現実に存在しないのはなぜですか? 佐藤可士和さんのようなアートディレクターや佐藤卓さんのようなデザイナーによる空間デザインと建築家による空間デザインはどこがどう違うのでしょうか? 建築に、文学や絵画やファッションのように建築家の“世界観”を体現しようとするのは幻想ですか? 建築に“共感”は成立しますか? 成立する場合、どのような存在の仕方がありますか? 建築科(建築家の間違いではありません)が文系では成立しないのはなぜですか? (幅広い回答を得られるよう、美術のカテゴリでも質問しています)