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我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

noname#2543の回答

noname#2543
noname#2543
回答No.6

 robkingさんの問題意識は、「人間の自己意識一般の成立条件」にあるのでしょうか。だとしたら、デカルトを持ち出すことは、全くの範疇誤謬(カテゴリー・ミステーク)です。  これはおそらく、robkingさんが「我」「自己」という言葉に混乱されているためだと思われます。つまり、「我思う、故に我有り」における「自己」とは代替不可能な<今、ここ>にいる<この私>のことですが、robkingさんの「自己」とは、むしろ人間一般について心理学で言う<自我>に近いもののように思われます。    もちろん、robkingさんの問題意識は重要なものです。しかし、それを考える場合は、とりあえずデカルトは忘れた方がよいでしょう。  そして、まずは外界の存在を前提にしていることは明確にせねばなりません。これを前提にしないと、さしあたって「科学」の対象になり得ません。  しかし、それだけでは十分ではありません。次に、意識主体として<自我>を持つ他人が「実在」することを前提とせねばなりません。  これを前提にしないなら、質問文のような複雑な事情は不要です。単に「『道端の石ころ』は意識主体か」と問うだけでよいのです。  人は、他人を意識主体と認知し、サルを意識主体と認知しまず。何故でしょう。さらに、場合によっては人形やコンピュータを意識主体と認知します。雪の中のお地蔵さんには傘をかぶせてやりたくなるのです。  或いは「おそらく意思はあるのだろうけど自己を表現できない質問文の子供」と「自己を表現できるけどおそらく意思はないだろうロボット」の違いは?  人間行動論では、他者を意識主体と認知してしまう人間の認知構造を"theory of mind(TOM)"と呼んでいます。  外界がある。普通の人間は意識主体である。これを前提として始めて、質問文のような子供に「自己」があるか問う実益があります。  このような問題には特に詳しくはないので何とも言えませんが、自己と外界の区別ができなくなる病気に、例えば「自己漏出」と言うものがあります。認知心理学ではこのような<自我>の問題をアイデンティティー論として扱っています。また幼児が自己と外界を区別し<自我>を確立していく過程は発達心理学が扱います。  このような分野が参考になるのではないでしょうか。 ※robkingさんの問題意識を勝手に忖度して、話を展開してしまいました。もし間違っていたら、許してください。  

robking
質問者

補足

有難う御座います。sukemasaさんのおっしゃることは一々ごもっともです。私の質問に対して真正面で受け止めていらっしゃるという印象を受けます。 ところで、私がまるでデカルトを攻撃しているように受け取られがちですが、そういう目的はありません。念の為。 デカルトの「認識主体としての我」や発達心理における「自我形成」、そして数理論理的な「自己言及」などを扱うものは、元々違う対象として扱うべきであることは承知しています。 質問文の文脈からは解りにくかったかもしれませんが、子供は「今、ここにいる私」は恐らく認識され得ないだろうと推論したのです。 さて「自我形成」や「自己言及」などの「自分自身」を表した概念は違うカテゴリのもの同士ですが、「代替不可能な我」は論理でいうところの俳中律と似たような響きを持っています。「AかAでないかのどちらかである」ことは「AはAである」ことを意味しますから、「AはAでないものではない」とか当たり前の話になります。まさにデカルト的な「我」のその「当たり前さ加減」とそっくりで、それらに関連がないとは思えないといった直感を(妄想?)を生み出します。しかしまあこれは論題として不適切です。 心理学的「自我」につきまして、もうこれはどこまでいっても客体としての対象として「自我」を扱うべきであるというのは承知しました。私は無論例の可哀想な子供にこのような自我の発達が無かったことを主張していたのではありません。sukemasaさんは「おそらく意思はあるだろうが自己を表現出来ない質問文の子供」とあげていますが、私は、この子におそらく意思はないだろうと主張したのです。自己の概念があることを前提とした質問内容でしたが、あれでいっているのは自己の概念を知っているというだけの「自己」はあり得ないということです。例えば「Aが存在する」とあって、そして「Aのみが存在する」となるとAは何に対して存在しているのかという超越的な問いが付随します。私はこのようなAは存在せず、BがあってCがあって・・・のように無限の対象事象を想起しているのです。そして・・・の中にAは存在すると考えるのです。 また、改めて断っておきますが、「我」、「自我」、「自己」を混同していた節があることは認めますが、私自身の立場(大層なもんじゃございません)としましては、これらの統一的見解を模索するといった狙いがあります。特に認識主体の存在と、数理論理における「自己言及性」には何かつながりがありそうだな、と踏んでいます。この時点ではただの勘だし、それどころか勘違いかもしれないので控えます。 ところで、自己漏出についての病理学的解析や解釈が現時点でいかほどかわかりませんが、それは自閉症の症状の一端にも現れますよね?「オウム返し」や「スプーン重ね」というのが有名ですけど、難しい問題だと思います。患者さんは「自我の認識が出来ない」のか、「自我の対象が広い」すなわち「あれ」のことも自分だと思うのかを区別しかねます。自分と外との境界が無くなると、自分の思考の「主語」として「私」の意味がわからない可能性がありますね。まあ病気の場合なら、その症状の度合いも考慮に入れるべきですから深入りは出来ません。自己漏出の患者さんが皆一様の区別不能性の程度をもっているとは考えにくいからです。 この件では、病気の解釈問題が多難であることがうかがえます。しかし認識主体の存在様式の性質を解くヒントがあるのかもしれません。 どちらかというと私は夢見主義でして、究極の物理理論や自由意思、人工知能やタイムマシンなどは「あってほしい」と願っています。そして知識の全てがある統一的立場によって解釈されてほしいと思っています。科学者がよく言うことですが、「世界は単純」なことを信じている1人です。 sukemasaさんはアドバイスという形をとっておられますが、これは立派な回答ですよ。質問文の前提がおかしい、ことを指摘されることはある種の問題解決にも結びつく訳ですから。   くどい様ですが、私はデカルトのファンです。有難う御座いました。

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