• 締切済み

江戸城の会議室

江戸時代の中央官庁街というのが、江戸城だったかと思いますが、 マニアックなところで、大老とか老中とか、すごくえらい人が働いていた(会議などをした)部屋は、 どこなんでしょう? たとえば、ペリーが開国を求めて来日したとき、「開国するしない」を 協議した場所は、どこなんでしょう? 「松の廊下」は有名ですが、ほかは、大広間くらいしか知らない私に、 どうか、お助けください。

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数5

みんなの回答

  • sdaru
  • ベストアンサー率22% (94/409)
回答No.1

会議を開いた場所は覚えていませんが、下のサイトに江戸城のことが 色々出ています。参考になれば幸いです。

参考URL:
http://www.basara.to/
diana36
質問者

お礼

参考URL、ほんとおもしろいサイトですねぇ。 あとで、ゆっくり見て回ってきます。 どうも、ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 井伊直弼を大老に就けたのは誰?

    幕末 。アメリカのペリーが (1853.7.8) 来航し 日本に開国を迫ってから5年 徳川家慶は死に 次の将軍 家定は 人間的にもかなり問題のある人であり。 阿部老中も安政4年6月17日江戸城内で執務中に 39歳で急逝。阿部の後を引き継いだのは堀田正睦ですが、彼は6月23日辞任。後を引き継いだのが大老・井伊直弼です  家定は将軍のまま安政5年7月4日34歳で死んでいます。 このような 状況で 井伊に 大老になれと命令できた人物はいたのでしょうか?

  • 英訳をお願いします。

    「江戸時代に、アメリカ軍人のペリーが、長年鎖国していた日本を開国に導きました。」の英訳をお願い致します。

  • 日本人がオランダに行く事って可能だったの?

    日本人が江戸時代(開国以前)にオランダ(オランダ本土やオランダ領東インド(蘭印))に行く事って可能だったのですか?オランダは江戸時代(開国以前)に欧州で唯一日本に入国する事が出来た国でオランダ本土や蘭印から来たオランダ人が来日したりしていましたが、逆に日本人はオランダ(オランダ本土や蘭印)に行く事って可能だったのでしょうか?明治時代には蘭印に行った事のある日本人が居るみたいですが。

  • 御殿について

    このカテゴリーがふさわしいかは不明ですがよろしくお願いします。 時代劇などに出てくるような昔の御殿について質問させてください。 1.時代劇などによく江戸城などの御殿の様子が出たりしますが、有名な江戸城の松の廊下などは廊下の片側は直接野外に面していると思うのですが、雨の日や台風のときは廊下が濡れたりしなかったのでしょうか? 廊下のもう片側も襖や障子などの簡単な建具でしかなく物騒にも思います。 雨などの日どのようにしていたのかと、どういう目的でこのような造りになっているのかを教えてください。 2.暴れん坊将軍などで、将軍が大名たちをひとつの部屋に集めて登場する場面が時々見られますが、あの将軍様の御成になる部屋はどれくらいの広さがあったのでしょうか?また、部屋の名前はなんと言うのですか? 3.できれば江戸城、姫路城あたりが良いのですが、御殿の平面図や、御殿の様子が描かれている資料など御殿についてのサイトや本があったら教えてください。 たくさん質問にしてゴメンナサイ m(__)m ひとつでもかまわないので回答いただけたら幸いです。

  • 松の廊下刃傷事件

     詳説日本史研究(山川出版社)に「松の廊下刃傷事件」に関して下記のような記述があります。              記 江戸城松の廊下には、赤松が生える海原に千鳥が飛び交うのどかな情景が襖絵に描かれていた。雅びやかなこの廊下で、1701 (元禄14)年3月14日、刃傷事件がおこった。勅使・院使を迎える直前の緊迫した空気のなかで、勅使接待の、馳走役浅野内匠頭長矩(1667~1701、赤穂城主、35歳)は、高家の吉良上野介義央(1641~1702、 61歳)に小刀をふるって刃傷に及んだ。吉良の逃げまどった跡には、松の廊下から桜の間にかけて、畳一面に血が散ったという。取り押えられた浅野長矩は、幕府により即日切腹が命じられ、さらに浅野家は断絶に処せられた。天皇からの勅使饗応の儀礼が重視されるなかで発生した、この時代の武家社会の矛盾を象徴する事件であった。(以上) 教えていただきたいのは、最後の「この時代の武家社会の矛盾」ということの内容です。「松の廊下刃傷事件」にどのような矛盾があったのでしょうか???武士が発生した時代なり、戦国時代とは異なる……時代の移り変わりと、武士の本来の在り方との変化みたいなことを言っているのだと思うのですが、どのようなことなのでしょうか???

  • 天皇はなぜ続いてきたのですか??

    仏教が取り入れられて、中央集権が始まるまで、部族会議の長のような存在?の天皇が鎌倉幕府時代、室町幕府時代、江戸時代にも続いたのはなぜなのでしょうか?? 南北朝時代に天皇を勝手に擁立したり、室町時代には食べるのにも困った時代もあったようですが・・・。 権力をもっているということは権限も持っているということで、それを狙って排除することもできたはずです。 詳しいかたよろしくお願いします。

  • 公務員の出張って?

    某官庁の出先機関に勤めている公務員です。 公務員の出張の在り方について疑問があります。 -------------------- 今月、東京で会議があるのですが、その会議の在り方にもよるのでしょうが、全く非効率的なのです! ある行政措置を新たにしようということで、全国から担当者をかき集めるのは結構なのですが、それが2週に渡って連続しない日に会議を行うというのです・・・ 月末には別件で上京します。 つまり、3週に渡り東京と地方の行き来をしなければなりません。 効率よく会議をセッティングすれば良いと思いませんか? この財政難の時代に飛行機代や宿泊費も税金ですから、無駄な支出になります。 民間企業の方はどのようにされているのでしょうか? 上司共々中央での会議の在り方に疑問を持っています。 一般的な話としておかしいと思いませんか? それほど緊急性・重要性のあるものとは思えない会議なのです・・・ 皆様の意見をお聞かせください!

  • 五騎の騎は馬一騎?

    1室町時代から戦国時代に関する小説や現代語訳された古文書などに「土岐山城守手勢五騎」などと出てきます。 この場合の五騎とは馬に乗れる身分の上級武士の数でしょうか。また一騎につく下級武士や雑兵の数は、地域によって異なるのでしょうが、何人ぐらいいたのでしょうか。 2江戸時代千石未満の旗本でも「近江守」のような官職名を持った人がかなりいたようですが、この場合官位は従五位の下などに相当する程度のものだったのでしょうか。だとすると、同じ官位を持った小大名と同格だったのでしょうか。旗本が詰める江戸城での部屋は帝鑑の間ではなと思いますが、同格だと廊下で小大名とすれ違ってもお互い会釈で済ませていたのでしょうか。言葉遣いなども同等だったのでしょうか。 わかる方、ご教示ください。

  • 幕末・維新を動かしたエネルギー

     徒然にというか、うとうととしながら、ふと、幕末・維新を動かしたエネルギーは一体何だったのか?という疑問が湧いてきました。もちろん、幕末・維新を動かしたエネルギーといっても単純ではないと思います。エネルギー同士ぶつかり合うこともあっただろうし、交錯することもあったと思います。  それで、ほんのちょっぴり歴史を楽しんでいる程度の少ない知識の中で、自分なりに少し考えて、思い浮かんだのが次の5点です。 (1) 外様大名と藩士の恨み  すぐに思い浮かんだのが、「薩長土肥」ということでした。それで調べてみると、4藩とも、いわゆる「外様大名」でした。それで関ヶ原の合戦以降、2百数十年間、恨みを持ち続けたのかも知れないということです。  ただ疑問もあります。    ア) 江戸城では、外様大名は、常に末席だったということを聞いたことがありますが、戦に負ければ、生かされているだけでありがたい、冷遇されるのは当たり前で、この程度のことで、「恨み」が原動力になるとは?とても考えられません。それとも江戸幕府は、外様大名に対して、2百数十年間、恨みを持ち続けられるような待遇をしてきたのだろうか?という疑問です。  イ) それと、もしそうであれば、「薩長土肥」に限らず、他の外様大名も、団結して歩調を合わせたのではないか?と思うのですか、「薩長土肥」の藩同士の関係においても、また、それぞれの藩の内部においても、必ずしも1枚岩ではなかったと歴史本を読むと理解できます。  ウ) また、他の外様藩から抜きん出たのは、この4藩に何か共通点があるのだろうか?という疑問も生じました。確かに、この4藩から、明治政府の要人を多く輩出していますが、だからといって、明治になってから、この要人達に、幕末・維新を動かしたエネルギーというものが、今ひとつ感じられません。彼らも大変だったと思いますし、表現は適切ではないと思いますが、勝てば官軍的、派閥的、官僚的、利己的な考え方が支配していて、本当にこの人達が、エネルギーになり得たのか?という疑問が生じます。根拠はありません……私のゆがんだ見方かも知れません。ただ漠然と。 (2) 幕府擁護派の抵抗  「薩長土肥」に討幕のエネルギーがあったとすれば、当然、それに抵抗するエネルギーがあったからこそ、動乱の幕末維新史が形成されたのだろう?いうくらいの知識しかありませんが。  ただ、幕末期、「江戸城の存在がずいぶん薄いなぁ」という印象を持っています。このあたり、幕府擁護派に何か方策はなかったのか?という疑問があります。もしも、幕府が江戸ではなく、京都か大阪にあったら?展開も変わっていたかもなどとも想像します。それとも、開国について、朝廷にお伺いを立てた時点で、「江戸は終わった」ということなのか?という疑問も湧いてきます。 (3) ペリーの来航  幕末史は、おおむね、ペリーの来航に始まると理解しています。  ただ、幕末・維新を動かしたエネルギーというよりも、欧米の植民地主義的な海外進出という大きな潮流がペリーの来航によって日本にも訪れ、それに巻き込まれざるを得なかったのではないか?明治政府の誕生は、この大きな潮流と、幕末・維新の動乱の中での、たまたまの結果に過ぎなかったのか?あるいは、日本なるがゆえの独自の選択の結果、あるいは切り開いてきた明治だったのか?という疑問が生じました。 (4) 江戸幕府なり、幕藩体制の体制疲労  室町幕府も、江戸幕府とおおむね同じ期間成立していますが、江戸幕府は、室町幕府とは、比較にならないほど安定していたと想像します。15代将軍慶喜の行動如何によって、多少延命されたかも知れませんし、全く異なった時代が到来したかも知れません。  ただ、ペリーの来航はひとつのきっかけであって、そもそも江戸幕府なり、幕藩体制が、世の中の流れについて行ってなかった、あるいは仕組み自体が古くなっており、ペリーの来航には関係なく早晩倒れる運命にあった。  これについては、無知なる者の単なる想像で、疑問も生じません。(*^_^*) (5) 尊皇攘夷思想  これも、私にはよく分かりません。一貫していたわけではなく、変動が激しいですよね。安政の大獄や桜田門外の変ばかりでなく、多くの出来事に関係していると思いますが、どのように影響したのか理解できていません。それに、尊皇攘夷と一言で言っても、「尊皇」と「攘夷」を分けて考えないと幕末・維新の理解が難しいのかな?という気もします。  質問、お願いは、次の2点です。 (1) 上記5点について、認識の誤りがあればご指摘願います。合わせて上記の文中、「?」のついているところについて、ご意見等いただければ、なおありがたいです。 (2) 私の考えた上記5点の他に、幕末・維新を動かしたと思われるエネルギーについて、あなたのお考えを教えて下さい。  なお、この質問については、できるだけ多くの方の異なったご意見をお伺いし、今後、日本史や幕末・維新を考える上での参考にしたいと考えておりますので、ご回答の有無、多少にかかわらず、4月5日(日)までは、締め切らないでご回答をお待ちいたします。よろしくお願いいたします。

  • 添削お願いします!

    私は高校生で、もうすぐ期末テストです。 日本史の問題(論述)があらかじめ発表されているので頑張って作りました。 間違えていることがあると困るので、ご指南頂きたいと思っております。こっちの方がいい・ここの部分は要らない等のアドバイスもお願いいたします。 問題) 幕末1860年代の公武合体論と公議政体論の違いを具体的な忠実の推移をあげながら説明しなさい。 但し、桜田門外の変  文久の幕末改革  船中八策 朝廷 の語句を用いるものとする。 回答) 開明的な老中首座であった阿部正弘は、雄藩藩主の意見を取り入れた政治を行っていたが、譜代大名らの反発を受け、開国派の堀田正睦に老中首座の座を譲った。譲った後も権力を掌握し続けるが安政 4(1857)年に死去する。  翌安政5(1858)年に13代将軍家定が死去すると、安政 の将軍継嗣問題が発生。 一橋慶喜を推す一橋派と、徳川慶福を推す南紀派に分かれて争う。  老中首座である堀田正睦は、安政5(1858)年に日米修好通商 条約の調印を求められた時に於いて、夷狄嫌いな孝明天皇に調印の 勅許を得ようとし、失敗。幕府の権威を失墜させた。  一橋派であった堀田正睦の失策に対し、南紀派且つ、政治的方便上、開国派であった井伊直弼は、失脚を画策し、大老に就任。強権 を発動し、朝廷の勅許無しで調印に踏み切った。更に、直弼は、一 橋派の人々を次々と処罰し、専制政治を布いた。 これを、安政の大獄という。処罰された主要人物は、吉田松陰、橋本左内らが処刑。一橋慶喜、松平春嶽(慶永)、山内容堂(豊 信)らが謹慎。水戸斉昭は隠居に追い込まれた。  この安政の大獄によって、一橋派の公家も処罰され、沈静化したかにみえたが、安政7(1860)年3月24日桜田門外の変が起こる。直弼に恨みを持つ、水戸藩の脱藩浪士ら18名の襲撃を受けて、井伊直弼が死亡する事件である。時の権力者である大老が大名屋敷から、城内に登城する合間に殺されたことによって、幕府の威光は地に堕ちた。 公武合体論は、島津久光によって提唱された政策論である。朝廷の伝統的権威と幕府を結びつけることによって幕府の権力の再構築を行うことを目的とした政策。久光は文久の幕政改革によって人事を一新し、朝廷と連動して兵を率いての改革を行った。  公議政体論は、土佐藩脱藩浪士坂本龍馬の考案した政策を、船中で同じく土佐の後藤象二郎が書き留め、船中八策として、山内容堂に上申。更に、それが慶喜に上奏され、最終的には帝に奏上された政策。諸藩藩主による諸侯会議の携帯を目的としており、その中に、徳川家も一諸侯として含まれていた。尊皇佐幕派の支持を得ていたが、王政復古の大号令によって構想が瓦解する。 以上お願いします!