• ベストアンサー

呪怨についての根本的な疑問(ネタバレ)

先日テレビで見ました。最後の意味するところや、時系列などは大体理解できたのですが、そもそもなぜ剛雄が伽椰子を殺したのか、そのシーンが冒頭に少ししかなかったので、よくわかりませんでした。 その後剛雄も死んだみたいですが、これは自殺なのでしょうか。それとも呪い? 伽椰子は、誰も助けてくれず、無惨に殺されてしまった事を呪って、その後も霊として出てきているのですよね。その怨念を広げたい!って心情はなんとなくわかるのですが、そもそもなぜ彼女が殺されてしまったのか、釈然としません。そんなに夫に恨まれるようなことをしてしまったのか? 小説では解説されているのでしょうか?ネタバレOKなので、教えてください。 男の子はすごく曖昧な存在ですね。生ともいえず、死ともいえず。母親が殺される場面を見ていたのなら、彼も父への怨念を抱いて(殺されたとしても)霊として出てきそうですが、どちらかというと案内人という立場にいるような気がします。この敏雄についての皆さんなりの考察も、できたらお聞かせください。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#11608
noname#11608
回答No.1

小説、読みました。 うろ覚えなので間違ってたらゴメンなさい。 伽椰子は、剛雄との間に俊雄を身ごもりますが、その後2人目不妊になります。何度も不妊治療に通うものの、授からず、そのうち剛雄が検査に行きます。 すると、剛雄の精子はほとんど活動性がなく、妊娠する可能性は0に近いという結果でした。 そこで剛雄は、なぜ俊雄が生まれたのか疑問に思います。 ある日、伽椰子の日記を見つけ読むと、伽椰子が学生時代からずっと憧れていた男の事が延々と綴られていました。 剛雄は、てっきり俊雄は、その男との間に出来た子供だと思い、伽椰子も俊雄も殺してしまうのです。 実は俊雄は、本当に剛雄との子供だったのです。何%かの確率で出来たようです。 その理不尽な理由で殺された伽椰子は、この世を恨みながら死んでいったと思われます。その怨みがあまりにも強いため、次々に連鎖していくのだと・・・。 剛雄の死こそ、呪いだと思います。 俊雄は、伽椰子の分身のような存在で、この世を彷徨っているのではないでしょうか?

Y-port7
質問者

お礼

なるほどー。つまり、勘違いが原因であのような惨劇が起こってしまったということですね。それは悲しいですねぇ。伽椰子が、死んでも死にきれないという思いに捉われるのも、わかるような気がします。 映画では、剛雄が狂気に蝕まれてしまったような断片的な描き方だったので、疑問だったのです。すっきりしました。 俊雄は分身ですか。彼、感情が読み取れなくてあまり生きているという感じがしませんが、かといって死んでしまったと言い切るのも、違うような。不思議な存在ですね。回答ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • PEPSI
  • ベストアンサー率23% (441/1845)
回答No.4

補足です。 敏雄は小説では殺そうとする武雄から逃げて押入れに隠れます。そうするとかやこの声が天井から聞こえ、それに誘われるように闇の中に入っていく・・・というえことです。 なので敏雄君は生きたまま呪怨世界の住人になってしまった状態です。今の生死に関してはわざと不明にしているのだと思います。 ハリウッド映画版では「武雄にお風呂の水で水死させられた」であろうシーンがありますから武雄に殺されているようです。 その後に現れたかやこが先生をどうしたかは不明ですが先生が生きて帰っていないことだけははっきりしています。

Y-port7
質問者

お礼

なるほどー、俊雄についての解説、とても参考になりました。ハリウッド版は未見ですが、日本版だと謎のところが、結構ハッキリと描かれているようですね。日本版よりわかりやすそうです。いずれ見てみたいと思います。 先生はその後、帰ってこない・・・こわいですねぇ。疑問が解けてスッキリしました。補足、どうもありがとうございました。

  • love_neko
  • ベストアンサー率28% (409/1460)
回答No.3

こんばんは~ 私は劇場版2本とリメイク(洋画)しか見てないんです。 ビデオ版は1番怖い(>_<)ということで1人で見る勇気がないです。まだ手元に買ったビデオがいつもテレビ横にありますです~。 洋画の方ですと伽椰子さんは結婚後も元担任の先生が大好きで、ある日、日記が発見され剛雄に階段で首を折られて殺されてしまいます。それを2階の手すりから俊雄くんが見ています。 日本の映画版2本だけですと俊雄くんを剛雄が殺した後、自殺という会話が刑事さんの話にあったのではないかと記憶しています。 しかし私も劇場版2本とリメイクだけなのでビデオ版2本もご覧になっている方がより正確な解答を書いてくださるのではないかと思います。 原作と映画が同じなのかというのも興味もありますが、まずは映画2本とビデオ版2本を制覇されてる方々のお話をお聞きしたいですね!

Y-port7
質問者

お礼

ありがとうございます。色々と謎のまま、語られていない部分はありますね。俊雄然り。ほんとうに、ただ呪いが蔓延していく様を取りたかったのかな。劇場版というより、ビデオっぽい雰囲気の作品だと思いました。

  • PEPSI
  • ベストアンサー率23% (441/1845)
回答No.2

1さんの補足です。 ビデオ版のネタバレになってしまいますが 伽椰子の好きだった男は偶然敏雄の担任になります。 伽椰子は嬉しさのあまり日記に妄想を書き連ねます。それを読んだ剛雄は勘違いして伽椰子、敏雄を殺害した後先生のマンションへと向かいます。 先生はその頃敏雄の家庭訪問へ。 天井裏の伽椰子の死体を見つけ「この家から逃げよう」と敏雄の手を取り玄関からでようとすると剛雄から「あなたの奥さんは殺害した」と言う電話が。 消沈する先生の前に伽椰子が登場・・・・ と言うような感じです。 剛雄はその電話をかけた後伽椰子(たぶん)によって殺害されます。

Y-port7
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 剛雄も怖いですね。嫉妬にかられて、殺人なんて。勘違いが原因で、あんな事件が起きてしまったというのは、悲しいことです。映画では冒頭に少ししかその辺りが描写されていなかったので、よくわかりませんでした。もう少し説明してほしかったような気もします。 ビデオでは、俊雄も剛雄に殺害されているのですね。でも先生は俊雄を発見?やはり俊雄は、生と死の間を彷徨っているのでしょうか。その後、先生の前に現れた伽椰子は、先生を殺してしまうのですか?もしよろしければ、補足お願いしますm(_ _)m

関連するQ&A

  • ラストフレンズの美知留のセリフ

    ラストフレンズの第一話冒頭部分で美知留の「もしも自分に人の心を知る能力があったら、せめてそのことにもっと一生懸命だったら、あの恐ろしい出来事を、あの死を、ふせぐことができたんだろうかって」というセリフがありますが、この「ふせぐこと」とはおそらく宗佑の自殺をふせぐことを指しているのだと私は考えています。 そうすると、美知留はこの時点で宗佑の自殺をふせぐために具体的にどういうことを考えていたのでしょうか? 授業の発表でこのセリフを考察するので、みなさんのご意見をお聞かせくださるとありがたいです。

  • 家を建てるときに呪われた土地かどうか調べる人っていますか

    土地を買って家を建てるとき、そこが呪われた土地とか昔誰かが自殺した土地とか、落ち武者狩りの死刑場だったとかそんな事がある可能性はなきにしもあらずです。そこで土地を買うときにそのような事があったか調べる人っているでしょうか?もしくは調べてくれるサービスとかはあるでしょうか? テレビでこの土地に家を建てたら夜ラップ音がしたりへんな声を聞く。耐えかねて霊能者の人に聞いたら、ここは霊の通り道だとか、昔の怨念が残っているとかいう話を時々きいたりします。 今家を建てるわけでもないですし、土地を買う予定もないですが、やはり長く住む土地なのでそのように調べたりする人とか調べてくれるサービスとかあるのかなと思い質問させていただきます。よろしくお願いします。

  • 自殺 尊厳死 と 臓器移植について

    私は精神疾患です。最近は特に心身共に調子が悪く、不快感を与えるこのような質問をするご無礼をお許し下さい。 自殺も尊厳死も当人は良いですよね。本人は死にたいのですから。希望通り死ねるのですから。『自分なんか生きていても、家族のお荷物だから』とか『自分はいない方が家族のためだ』と、自殺志願者、尊厳死希望者は言います。そうですね。私もそう思って自殺を図ったことがあるものの、生きています。 だけど残された家族、人の気持ちはどうなるのですか?『自殺に追い込んだ』『尊厳死を選ばせた』と、一生悔いて生きていくのでは、ありませんか? 先日。脳死状態の特集を観ました。 死んで脳死と判定されたけど、本人が生前に脳死状態に陥った場面、臓器提供をする意志表示をしてなかった場面が多いと、有りました。 ふと思いました。故意に脳死となる方法はないのかと。自殺をすることで家族が嘆くことには、変わりはない。だがこの世には生きたくても、臓器移植をする他に助かる方法がない人がいて、臓器提供者を待っている状態の人もいる。 自分の家族に自殺を選ばせたけど家族の誰かが自殺しても、それが脳死状態での自殺だったら、、、他の人を生かせる自殺だった。 大切な人に死を選ばせたことは悔やまれるけど、他人を生かすことが出来る自殺だったと、家族は思えないのでしょうか。 自殺をする場合は必ず脳死状態になれるように行い、臓器は必ず移植すると意志表示をして、自殺をすれば、助かる人が増えて良いんじゃない? と、ここまで考えて、そもそも故意に脳死状態になることは出来るのだろうか?と、思いました。また、突然家族の誰かを失う悲しみは、同じなのではないか? 尊厳死も確か日本の法律で、まだ認められていないのではないか? 例え認められていたとしても、その人に臓器提供の意志があっても、、、と思うと、思考が迷宮入りしてしまいました。 そもそも故意に脳死状態を、引き起こすことが出来るのだろうか? 今の私は自殺志願者ではないけど、人間いつかは死を迎えます。私は最後くらいは他の人の役になる死に方をしたいと、思っています。 目茶苦茶で憤慨する内容の質問を、最後まで拝読してくれて、有り難うございます。

  • 作文の心情表現が大袈裟になってしまう

    少年の主張の作文を書いています。 人の死を身近に感じてどう思ったか、どうしていきたいか、というのがテーマなのですが、どうしても心情表現が大袈裟になってしまいます。 大袈裟、というか小説っぽいというか。普段、趣味で小説を書いているせいだと思います。 遺体に触れた時の気持ちとか、お葬式中の気持ちなどを表現する時、身体中を刃物で刺されているような痛みが~とか。 心情表現だけでなく、人が焼かれた後の表現などが、生々しくなってしまいます。血肉や様々な機関でできていたその姿は、骨と灰だけになっていた、さっきまであった顔も手も脚もどこにもない、みたいな。実際は丁寧語ですが。 作文を書くと、どうしてもこういう風になってしまうのですが、作文としては変でしょうか?

  • 二十世紀少年の映画を見た人に質問?

    ネタバレでも教えてください。 映画ラストで過去の駄菓子屋の場面で、「イケガミ君と仲の良かった フクベエは突然死んだ。」と言っていましたが、本当のフクベエの死因 は何でしょうか?結局、何十年も経った後の同窓会では誰が誰だか分からないという事なんでしょうが!漫画を見ていないので良く分からないという事なんですが・・。叱らずに教えてください。 追記、当然のような個人の感想ですが、ラストの学校場面が第一章の始まりで、謎解きで、終わり方は監督独特で、非常にさり気無く教育的配慮されていて良い映画でした。(いじめ、死、正直な生き方など・・・書かなくても当然ですが・・)

  • 死を望むほどの恐慌は、果たして食い止め得るか

    君達去る者は、やがて来る者と、つかの間すれ違うだろう。 その新しき者として、君達を哀悼する、悲しみの癒やし手、絶望を祝福する死の英雄。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 まあ、今回は難しいことは言わん。 前回のコレ↓ 無の境地とは、死と向き合う生き様である。 http://okwave.jp/qa/q8914448.html ここで思いついたことがあるので、質問内容を更新するよ。 前回の冒頭を要約すると、死を避けようとすることと、生きようとすることは違う。 生きようとすることは、死の幻を打ち砕く事だ。 死を避けようとすることは、そんな生きることからも逃げていまう事だ。 今回考察するのは、自殺願望に関する私の見解だ。 ときどきこのオカマバーにも、死の衝動を吐露する泣き言を言う弱虫が登場するね。 私はそんなのをそれなりに観察していてね、彼は、死から逃れ続けることに疲れた、いっそ死を受け入れたい。 そう言っているんじゃないかな。 生きようとしてこなかったくせに、いつの間にか生きる事をあきらめている。 こんなのが死のループに閉塞した悩みなのだろう。 鬱の心情も分析できるかもしれない。 やあ、ほんのこんな見解から、彼らが自分自身の心がけを自覚できる事が出来たら話は早いんだがね。 生きる事を目指して奮い立つだけでいい。 その気づきは、生きる事を悟る道のりになるだろう。 いきなり自分を変えようとしなくてもいい。 そうさな、散らかった部屋を片付けることから始めろ。 少しづつ、与えられる幸福ではない、自分だけの幸福を増やしていけばいい。 日常に幸福を見いだし、少しづつお花畑を育てていけばいい。 今の少しの不幸は、幸福が増えていく希望の前にちょっとした事に思えてくるだろう。 今回はまるで仏様の様な心やさしい話だね。 ところが私は闇の仏陀、黒き明星だ。 実のところ、私は、死の衝動に汚染されない清らかな心を持っているので、犠牲者が出ても君達と違って身につまされたりしないのだよ。 同病相哀れむと言う通り、君達は明日は我が身だと思うから、こうした輩を助けたくなるのさ。 そうした同情は私には無いのだよ。 こうした論説は、オカマバーで酔っ払ったゆえのきまぐれだ。 V字開脚しろと要求するのは、理にかなったことでね、懇願するならそれらしく振舞い、私をもっと酔っ払いにしろってこった。 このオカマバーのナンバーワンホステスは人の道嬢だがね、私には高根の花のようで、つれない素ぶるばっかりだ。 今回のテーマは自殺願望阻止だ。 何とか言ってくれたまえ。

  • 僕は死にましぇん。

    はっきり言おう。 ノストラダムスが予言した恐怖の大王とは私の事だ。 私は君たちの滅びを司る暗黒の救世主。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私は生きながらに常世の住人だ。 私にとって肉体を失う事は単なる変化であり死ではない。 しかし君たちはそうではないね。 死ぬんだよ。 そもそも霊視のできる私がまじない師仕事で死者の消息を尋ねられたとしよう。 常世に死者はいない。 したがって、見出すことができない。 何故なら君たちの死は永遠の死だからだ。 死を背負った君たちは常世において記憶の墓標という死者の証を記している。 それは天界において記録される君たちへの裁きの証であり、君たちの真実だ。 君が死ぬとその記憶の墓標から、不実の繭が羽化し赦された新たな命が生まれる。 それは君たちではない。 君たちは消滅し、その記憶を受け継ぐ新たな生命が、許される自由を謳歌するのだ。 それが来世で新人類として闊歩するだろう。 君たちの魂は食い破られるのだ。 私は君たちの安らかな滅びのため戦い、新人類の誕生をみとる。 さらば、古き者どもよ。 以上はいつものように仮面ライダーの考察の一部です。 哲学的には死をテーマにしています。 あなたなりに死を解釈してください。 怪人の振りをして、死の定めに踊ってくれてもいいです。

  • 山田風太郎の死生観と私の妻の死について

    私の妻は両親から虐待を十数年受け続けて育ち、「世界は悪人が支配している」 という見方をしていました。それでも最近は「人間の命は短か過ぎる。このくら いの幸せでも200年でも300年でも生きていたい」と繰り返していました。 ところが、昨年末、私の一生一代のミスのせいで妻を60歳になる前に死なせてし まいました。「妻はもっと生きたかっただろうに!」・・・自責の念に苦しんで おりました。ところが、山田風太郎の「死言状」という本を読んでいて「?」と 考え始めました。以下がその一節です。 「余は死を怖れず。勿論死は歓迎せず。死はイヤなものなり。第一解剖台上の死 体を見るも死はイヤなものなり。しかれどもまた生にそれほどみれんなし。生を 苦しと思うにあらざれど、ただくだらぬなり。金、野心、色欲、人情、もとより われもまたこれらより脱する能わず、しかれどもまた実につまらぬものにあらず や。五十年の生、これら万花万塵の中に生きぬき、しかも死や必ずこれにピリオ ドを打つ。しかしてその後にその生を見れば、その生初めよりこの地上になきも ほとんど大差なし」 解剖台とかあるのは、彼が東京医科大生で人体解剖の授業でもあったのでしょう が、この本を書いている40年後の今も思考がほとんど同様であることを知って改 めて驚いたと書いています。 最後部分の「五十年の生、これら万花万塵の中に生きぬき、しかも死や必ずこれ にピリオドを打つ。しかしてその後にその生を見れば、その生初めよりこの地上 になきもほとんど大差なし」は彼の無常観で私も共有するのですが、実は私の妻もこ の無常観を持っていたのではないかと思い当たったのです。200年も300年も生き たいと言ったのは、人生80年は短か過ぎる、はかな過ぎるという気持ちであり、 むしろそんな人生ならないほうがましという気持ちに近いのではないでしょうか ?200年も300年も生きたいと望んでいた妻を自分の失敗で殺してしまったという 自責の念で苦しんでいたのですが、実は妻も人生のはかなさを悟っており、生ま れても生まれなくてもどっちでも良かった、大差ないと感じていたのなら私の自 責の念も少しは軽くなるのですが・・・ あなたは私の妻の「このくらいの幸せでも200年でも300年でも生きていたい」と いう言葉から彼女の本当の心情はどのようなものだったと推察されますか? 追記:私を「過失致死罪」として逮捕し、即死刑にしてくれたら一番私の気持ち に合ってるし、どんなにかラクだろうと思うのですが、「事故死」として片付け られ私を死なせてくれません。そして自責の念に毎日苦しむことになりました。

  • 幽霊について考察

    私は霊感まったくないのですが、数年前古宿に泊まったときに、深夜にベッドをバンッと叩かれて起こされ、見ると脇に白いボンヤリした何かが居て、ずっと見ていたら消えました。寝ぼけていたのかもしれませんが普段そんな体験をすることはなく、人の残留思念みたいなものが部屋に残っていて、たまたまそれと波長が合ってしまったのかなとも思いました。 私だったらこんな風に霊体験なんかしたら嬉々として話しますが、「見える人」ってあんまり自分から言わないんですよね。「あいつ見えるらしいよ」と聞きつけて話を聞きに行き、しつこく聞くとようやく重い口を開くかんじ。だから嘘だとは思えない。 あと不思議に思うのが、見た幽霊の姿形を詳しく伝えたり絵に描く人があんま居ないこと。私だったら絶対描くしSNSにもバンバン書く!笑。霊感のある人ってそもそも物事の見え方捉え方が特殊なんじゃないかと思います。それとも霊ってやっぱタブーなのか? インチキと思う事。例えば神奈川県の猿島という無人島には、旧日本軍の遺構があり雰囲気満点なため霊スポットと言われてるのですが、そこで戦闘があったことはなく無念の死をとげた怨霊なんかおらんだろ!だったら大空襲のあった東京なんか怨霊でひしめいてるはず! まとまりませんが、見える人見えない人、幽霊に関して思う事、考察などを回答いただければと思います。

  • 灼眼のシャナIIの最終回

    wikipediaによると、そもそもセカンド自体がアニメオリジナルストーリーで、ところどころを原作に基づいて製作している、との記述がありました。 最終回のエンディングで、クリスマスの夜をやり直す場面があり、シャナと吉田さんは自分が指定した場所で待っていたようですが、結局のところ悠二はシャナのところへ行った、で正解なのでしょうか?? 最後にシャナが笑顔になったことと、雪の足跡が途中から消えていたことから考察して、足跡が消えたのは飛んでいったからではないかと思うのですが、ご覧になった皆さんもそのようにお考えですか? また、原作は「清秋祭」あたりまでしか読んでいないので、こういう具体的にどちらかに決める、というような内容が原作にあったのかどうかということもご存知の方は(ネタバレになりすぎないように)教えてください。