- 締切済み
知性とは結局のところ数学か
特権化できる知性の最高のものは数学なのでしょうか。 極端ですが、たとえば文芸評論などは結局のところ日常会話の延長で、 つまるところ気分なんじゃないかと思うことが多々ありまして。 さらに、人間社会を分析しようとして様々な人文系の文章が日々書かれてますけど、 それらの多くは数学の厳密さに比べてあまりにもテキトーな気がします。 つまり「まぁ、どうとでも言えるよね。」というわけです。 これには私が数学に疎いことによる数学の神秘化が多分に含まれていると思いますが、 どーしても「結局数学(自然科学)以外って、言いっぱなしなんちゃうの?」 という思いが強いです。 だからこそ数学に詳しい人の意見を聞きたいのですが、 結局のところ人間の知性らしい知性、特権化できる知性といいかえてもいいですが、 それって数学なんですかね? その意味では文芸評論なんかは言いっぱなしに過ぎないんですかね? 結局のところ一番知りたいのは、そうしたなんらかの批評を書く人は、 虚しくならないのかどうかということなのですが。 多少質問がとっちらかってますが、気になっているのでご意見をお聞かせください。 (今回の質問に限っていうと、「数学はできるけど、ろくに笑いも解せないような『知性』じゃしょうがないじゃん?」とか そういうことを聞いているわけではないです。)
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
みんなの回答
- dawasa
- ベストアンサー率35% (19/54)
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
- dawasa
- ベストアンサー率35% (19/54)
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
- betagamma
- ベストアンサー率34% (195/558)
- AbCd98521Dreame
- ベストアンサー率25% (6/24)
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
- liar_adan
- ベストアンサー率48% (730/1515)
- seinzeit
- ベストアンサー率38% (119/312)
- seinzeit
- ベストアンサー率38% (119/312)
- 1
- 2
関連するQ&A
- 評論という言葉の意味は?
評論って調べると、【物事の価値・善悪・優劣などを批評し論じること。また、その文章。「時局を―する」「文芸―」】 って出てました。僕は、いろんなニュースや物、人(物事でいいかw)に対して、自分なりの意見を言う人というように解釈していますが、間違っているでしょうか?間違いならば、教えていただけませんか? 時折「映画評論家」「政治評論家」など聞きますが、これはそのことについてだけしか意見が言えないって事でしょうか?それとも、主にそのような事について詳しいという意味でしょうか? 使い方として「評論者!」とか使えますか?(評論家の方がしっくりくるかな)よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 日本語・現代文・国語
- ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム
1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。 ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム 前(プロト)歴史知性 イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った: 歴史知性;《世界‐内‐存在》 ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする: ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる: 《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》 2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。 3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。 4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。 5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。 6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。 7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。 8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。 9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。 10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。 11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。 12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。 13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。 14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。 15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。 16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。 このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- これがお友達ごっこなのでしょうか。
これがお友達ごっこなのでしょうか。 大学生です。評論家のような性格の人っていますよね。私の周りにいる女子なんですけど。人のことけなして嘲笑って馬鹿だね頭悪いねと言い、でも自分が陰口叩かれたり何か言われたりしたら、すご~く気にしちゃって傷ついちゃうんですよね、評論家タイプって。傷つきやすいなら、言うのをやめろと。言うなら、自分が言われたときに傷つくなと。言いたいです。自分がしている事が一番正しいのでしょうか。見ていて関わっていて不愉快なときがありますが指摘もできません。私自身よく評論家タイプに批評されるんですけど、ごもっともなので反発しませんでした。私に「人の批評を聞くのは不愉快だ」と言われようと、評論家タイプは身にしみないでしょうと思うんです。言われたらどうせ怒るか傷つくんですよね。まわりの人たちが本人に言えないのも、その人をこわがってる人が多いからなんです。「あの人、こわい・・・」という言葉をよく耳にします。 ・・・しかし、だからと言って言えないということは本当に友達ではないのでしょうか?よくそういう人からは距離をおくという人はいますけど、私はチキンなのでそこに居っぱなしです。なんだかんだで友達がいなくなることを恐れています。他のグループを抜けてきた人と仲良くなりましたが、なんだか「ハブラレ組」みたいな気がして・・・後ろめたいことですが結局は何かを言われるのが嫌で自分が一番可愛いんだと思うと情けなくてたまりません。 もうどうしたらいいかわからなくなりました・・・
- ベストアンサー
- その他(恋愛・人生相談)
- 文学作品についてのレポート
日本文学を専攻しています。作品についてのレポート提出がほとんどですが、「人の意見じゃなくて自分の意見を」と言いますよね? でも文学作品に対する批評って、ほとんど出尽くされていると思うんです。私が半年程度考えたところで何にも新しい意見なんて出ないような…。評論を書くわけであって、感想文を書くわけではありません。 なんとか奇抜な意見を、意見を…と考えて書いていたら、もっっのすごく時間がかかる上、いつもピントがはずれたものができてしまいます。 、「ーという~氏の意見をどう思う。△△だから」のような他人の批評の感想文みたいなものにするしかないのでしょうか? みんなはもっと簡単にレポートを書いているのかな、とも思い、悲しくなってしまいます。みなさん(文学作品のレポートを書かなければならない人)どうしていますか?
- ベストアンサー
- 文学・古典
- 数学の独学と、その危険性について。
はじめまして、こんにちは。私は人文学系の学部一年生です。 私は数学が好きで、数IIICまでとっていましたし、大学も数学科に行こうと思ってました。 しかし、将来は図書館司書になろうと思ったこと、計算が苦手で人一倍時間がかかる上、ミスも多いため、母に数学科はやめておけと反対されたこともあり、司書課程のある人文学系の大学に進学しました。 しかし、いまだに数学が好きで、大学の図書館等で勉強しているのですが、不安を感じたので質問させてください。 私が好きな分野は、数論系で、いわゆるトンデモ本が多い分野です。 研究者になろうと思っていないし、本を書くつもりはないので、私自身がトンデモ数学者になることはないと思うのですが、誤った知識をそういった本で身に着けてしまう危険性はあると思います。 独学をする際、どのようなことに気を付けて本を選べばよいでしょうか。数学的に正しくない本はどの程度勉強すれば見分けられるようになるのでしょうか。 また、数学をきちんと学びたいと思ったならば、将来数学者になるつもりはなくても、数学科に編入・転学するべきでしょうか。
- 締切済み
- 数学・算数
- 上手く歌えないのが音痴だとしたら楽曲の批評も無理?
音痴の人は、聴いた楽曲の批評も正確に出来ないのでしょうか? それとも、耳で聴いたものを分析するのと、自分でハズさずに歌う事は関係ないのでしょうか? 音痴だけど、楽曲を分析し、批評するのは可能でしょうか? ※ 批評するとは、公に堂々と意見を表明しても差し支えないか。という意味です。
- ベストアンサー
- その他(学問・教育)
- 数学についての考え方
こんばんは。 僕は高校2年生なのですが、最近理学、特に数学に強い興味を抱いています。調べてみると、数学に対する考え方もたくさんあることが分かりました(観念的実在、形式主義など・・・・)。そこで少し思ったのですが、数学者は数学に対してどのような考え方をしているのでしょうか。特に、実在論者以外の人は、「人が勝手に作りだした、あくまで人間の抽象概念である」数学にどうしてそこまで熱中できるのか、そんなもの(決して貶しているわけではありません)に人生かけても空しいだけ・・・・と感じてしまうのですが、どうなのでしょうか。 下手な文章で申し訳ございません。
- 締切済み
- 数学・算数
- 数学科卒業後について
私は今旧帝大の医学部に在籍している者です 最近ずっと悩んでいて、自分がやりたいことは数学なのではないかと考えています 今から再受験するとなると東大の数学科(理科1類)を目指すことになりますが大学院まで数学を学んだ後、金融保険関係の会社に就職する人が多いようですが、私は一般の会社に就職するのは(人間関係などを考えて)やっていける気がしません 私は人間関係に悩まず、自分の研究に没頭できるような仕事に就きたいと思っています そこで質問ですが (1)卒業後大学に残って数学の研究をする、というのは可能なんでしょうか? (2)もし可能ならば、そうする人は全体のうちどれくらいの割合を占めるのでしょうか? 私は人間関係に悩まず、自分の研究に没頭できるような仕事といったら大学の数学科教授くらいしか思いつきません(よく知らないだけで教授も人間関係の問題があるのかもしれませんが) (3)そこで、数学科教授になるには一般的にはどういうプロセスを経ればいいんでしょうか? (4)また、数学科教授以外に私の条件に合う仕事はありませんか? このまま医者として安定した道を選ぶのか、多少リスクがあってもやりたいことをこの若い時期にあるべきなのか、ずっと悩んでいるので是非皆さんの意見が聞きたいです
- 締切済み
- 大学受験
- 数学の先生が好きです!
その数学の先生は、教えるのがとても上手いです! でも、さすがに先生も人間なので、間違えることもありますし、 分からないこともあります。 でも、私は、数学が好きなだけで得意ではありません。 (私はいつも90点前後。周りの人は95点前後) たぶん数学が好きなのは先生のおかげだとは思ってます! そういう生徒ってどんな感じに見られているのですか? 何か、質問じゃなくなってすいません。 なので、意見とか好きな先生がいる!とかという人!など 回答お願いします!
- 締切済み
- 中学校
- 製品名:DCP-J926N。印刷すると、左側は正常ですが右に行くにしたがって文字がずれます。補正をしても直りません。
- お使いの環境はWindows10で、無線LANで接続されています。電話回線の種類はひかり回線です。
- ブラザー製品についての印刷のずれに関するトラブルです。補正をしても改善されないため相談したい。
お礼
>>数学=規則、人文系批評=解釈 >とわたしが思っているわけではありません。 ああそうなんですか。ということは私は全くかみ合わないことを言ってしまい ましたね。申し訳ない。すると必然的に以下の応答もまたそういう状態に陥らざる を得ないので、話半分で聞いて下さい。 >数学の述語だった「知性」が「知性」から「形式的思考」→「E」→「Eの別名は数学」 >という具合で、数学=数学となっている~ >数学それ自体の扱い方はトートロジーになっている気がします。数学が人文に比して >「E」であると言っているのではなく、数学だけが数学的だと言っているにすぎないというか 分かりにくい言葉で混乱させてしまいましたが、実はこれらはすべてdawasaさんが解釈された ような「純粋に形式的なものは解釈できないじゃん?」ということを主張したいのではなく、 図らずもdawasaさんが言ったような「数学=数学」という私の信念を再度強調しただけ なんです。トートロジーは強調への固着性が表出してしまったものです。 つまり、私が(ドストエフスキーの言葉を借りれば)「2×2=4(ににんがし)が往来の真ん中で 腰に手をあててツバをペッとやっている」のを見て途方に暮れる人種の一人であることを 説明しただけなんです。これはやはりどうあっても往来の真ん中にいるわけで、これを 前にしながら人文系のモノを書くのは根源的に虚しさを抱えるハメになるのではないか? というのがこの問のそもそもの出発点なわけです。 とはいっても、数学との溝が悩みになったことがないというdawasaさんと悩んじゃってる私との 間のQ&Aは、ずっと平行線を辿ることになってしまうのかもしれません・・・。 やはりそれでも、数学の構造的な疎外を感じずにはいられないのですが、 この点について(ヤツがペッとやっていることについて)果たしてどう思われますか? (また繰り返しちゃってるだけなら、重ねて申し訳ないです。)