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回答(14件中 1~5件目)
梶原景時に関しては織田信長の家臣であり、土佐の領主となった山内一豊とも関係が深いといわれております。
山内家はもともと岩倉織田氏の家老の家柄で、美濃にも領地を持つまずまずの家柄であったようで、その出自は秀郷流藤原氏の子孫を自称してますが(はっきりしない)、一豊の母親は梶原氏の末裔であったようです。
因みに一豊の姉は西美濃の豪族安東家に嫁いでいます。
もう一人、織部焼きの古田織部とも多少のかかわりがあり、織部の生まれた本巣町に建つ山口城は梶原景時が美濃の守護の時に築城されたとかで、そうした案内板も建っています。
この城跡に関しては行った事がありますが・・・案内板は見落とし、景色を眺めて帰ってきました。
投稿日時 - 2004-09-15 15:55:25
お礼
たびたびありがとうございます!
初めて知るような影時情報で、とても興奮しています。
早速、山口城について調べてみました。確かに景時が建てたと説明がありました。でもほんの少ししかなくて残念・・。
景時の後に吉田織部が城主となったということですね。吉田織部も岐阜に非常に縁の人らしく、新たな興味を覚えております。
信長の家臣で、美濃の守についても調べてみましたが、梶原政景という人だったようですが、本当のところはどうなのでしょう?
投稿日時 - 2004-09-15 16:29:19
追加ですが、信長が岐阜と命名したはそれでよいと思います。
「岐阜」という地名自体は「梅花無尽蔵」に「岐阜陽」とあり、「仁岫録」にも「岐陽」としるされているから、信長以前に禅僧によって岐阜と呼ばれていたことが分かっています。
よく分かる例として現在の市町村合併がありますが、合併する地域に何か縁のある名前で語感や意味のよい名前を選んで新しい地名にすることが一般的です。
南アルプス市とか四国中央市とかひらなみ市とか。
恐らく「岐阜」というその土地に縁のある名前に中国の故事を結びつけて作られた新しい地名が「岐阜」あり、その意味では信長の理念が感じられますから、信長の命名としてもよいような気がします。
彼以前に人臣の身で地名を変えた例はありませんから。
参考URL:http://homepage1.nifty.com/nagaragawagarou/hurusatoniomoukikousyu.htm
投稿日時 - 2004-09-15 10:21:20
>源義経は岐阜と関係
岐阜県恵那郡上矢作町の「大船神社」に弁慶杉という物があり
「大船神社の弁慶スギは、樹高40メートル、幹の周囲は10メートルの大木で、樹齢2,500年と推定されています。一説には源義経が奥州に下って行く途中、大船神社に祈願し、そのおり弁慶が小枝を折って地に刺したスギが成長したものだともいわれています。 」
と説明がありました。
関が原近辺には常盤御前(義経の母親)の墓があり、これを詠んだ芭蕉の句碑
「義朝のこころに似たり秋の風 ... 」
があったりします。
義経の父親の義朝も平治の乱に敗れて隠れ住み(殺されたのは愛知県の野間ですが)、保元の乱に敗れた源為義も岐阜に逃げますから、源氏とは縁の深いところではあります。
梶原景時は美濃守護を務めておりましたから縁の深い武将です。
投稿日時 - 2004-09-15 09:02:54
お礼
すごいですね!
とってもお詳しく、びっくりいたしました。
岐阜のご出身なのでしょうか?ありがとうとうございます!
弁慶というと、牛若丸と戦って家来になったということですよね。弁慶を家来として連れて大船神社へ行ったということなのかな。
それから源朝などは岐阜に隠れ住んだということですが、何かもう少し詳しい情報がもしあれば、ぜひとも教えていただきたいです!
景時が美濃守護を務めていた時のことなどもすごく興味があります。
よろしくお願いします!
投稿日時 - 2004-09-15 13:43:29
岐阜県は美濃と飛騨の2国によって成り立ちます。
また、文明年間(1469~86)に、すでに「岐阜」の名が見られるので、信長がつけたとされるのは間違い。
戦国時代以降はすでに答えが出ているようなので、
承久年間
大内惟信・斎藤親頼・開田重国・木田重季・上有智頼経・夜比兵衛など
美濃源氏
源経基・満仲・頼国・頼信・頼義・満政・忠重・定宗・重宗・頼綱・仲政・頼政・国直・国政・国房・光国・光信・光基・光衛・光行・光長・光重・光能
南北朝の頃
姉小路家綱(飛騨)・佐々木道誉
投稿日時 - 2004-09-15 07:25:19
お礼
情報、ありがとうございます!
岐阜は意外と武士との関連のある地なのですね。
たくさん教えていただき、ありがとうございました。
投稿日時 - 2004-09-15 13:47:37