orin-mのプロフィール

@orin-m orin-m
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  • 登録日2014/04/26
  • 年代30代
  • 都道府県東京都
  • 高校三年の男です。学校に行けなくて困っています。

    長文になり読みにくくなってしまっています。 申し訳ありません。 あたたかい御反応をいただけたら幸いです。 よろしくお願いいたします。 今学期から高三生となりました。 学期初めの始業式、HRなど三日間程登校することができましたが、 以降先週は全く登校することができませんでした。 「一週間休んだくらいで」とか「甘えないで行け」とか思われてしまうのだと思います。 でもなぜか自分でもわかりきってるそんな簡単な『一歩』がどうしても踏み出せないのです。 話が脱線して申し訳ないのですが、少し僕自身の昔話をさせていただきます。 僕は小さい頃から忘れ物が多かったりすぐに物を落としたりしてしまう子でした。 そんな僕は集中力と頑固すぎるほどの真面目さがあり、そのおかげが某国立小学校に運良く入学することができました。 その後、少し特殊な環境ではありましたが何の変哲もない小学校生活を送り、附属の中学校へと内部進学しました。 附属と言えど軽い進学試験はありましたが到底「受験」と呼べるようなものではありませんでした。 中学校では小学校からの付き合いがほとんどという環境や、持ち前のコミュニケーション能力の高さからいつの間にか部活やクラスの中心・先頭的存在となっていました。 他学年からの知名度も高く、校内では割と有名な存在でした。 (主観的、客観的また医学的にも見た僕の長所の一つのようです。) しかし、そんな人間関係や娯楽等にうつつを抜かしているうちに成績はどんどん落ちていき、高校の内部進学を自主的に断念しました。 受かるだろうと教員からは言われていたのですが、さらにハイレベルになる高校の授業への不安や、今までずっと同じ仲間たちと同じ世界で生きてきていたので外に出てみたくなった為、外部受験を決意しました。 今振り返ってみると、 故意ではありませんが『「憧れの対象」としていつの間にか見られるような存在になっていた自分』と『本当の自分』とのギャップに無意識に耐え切れなくなっていた事、そして試験に落ちてしまった未来の自分を想像したときに、格好悪いことですが「憧れの対象」としてのプライドが許さなかったのだと思います。 そして現在通っている某都立校に進学しました。 9年間も同じ仲間がいるぬるま湯のような環境で過ごした僕は、案の定、入学当初から友達ができず孤立していました。 誰かに声をかけることは苦手ではないのですが、初めて知らない人たちの中に埋もれた緊張と動揺から何もできず塞ぎ込んでしまいました。 とは言え他クラスに小中と一緒の学校の親友がいたり、中学校から始めたハンドボール部に入ったりと徐々に交友関係も広がり、平凡な日々を過ごしていました。 そんな「平凡な日々」をすごす「平凡な自分」の脳裏を過ぎるのは「憧れの対象」だった『過去の自分』でした。 今の「平凡な生活」に不安はありませんでした。 あの日々も今思えば幸せで、大切な大切な毎日でした。 しかし愚かで無知で子供だった僕は『過去』にとらわれ続けていました。 昔のクラスメート、チームメイトなどと頻繁に会い、中学校にもよく遊びき行き同窓会の幹事も担当しました。 そんな自分への自己嫌悪、かつての同級生からどう思われているか悲観的にとらえてしまったこと、また当時のクラスメートたちへの申し訳なさなどで、 僕の中の何かが弾け、崩れてしまいました。 2012年10月雨が降っていた登校日のある土曜日のことでした。 制服を着た僕は、どうしても学校に行きたくなくて「行ってきます」と親に伝えたまま雨の中当てもなく自転車をとばしました。 行き着いた先は、中学のクラスメートとBBQ等の同窓会をした海浜公園でした。 呆然とした僕は降りしきる雨の中、柵の向こうの荒れ狂う海を見つめていました。 どれだけの間そうしていたかは覚えていません。 ただ、柵に手をかけ乗り越えようと力を込めた時に近くに清掃員の方がいたのを見つけ我にかえったことだけは覚えています。 その日は、無断欠席、連絡手段のシャットアウト等を柄にもなくしてしまったため、あと少しで警察沙汰になるところでした。 それから僕は学校に行けなくなりました。 混同してしまいそうな複雑な話、かつ拙い文のため読解しにくく申し訳ありません。 これは二年前、高1の時のことです。 精神状況が不安定なままの不登校は続き、精神科にも数件伺いました。 そして自分に合った医師、カウンセリングの先生と巡り合うことができ徐々に回復していった僕は単位や出席単位もギリギリではありましたが保持し、無事高校二年生に進級することができました。 当時診断された病名は「躁鬱状態」でしたが、理性もあり「うつ病」とはっきり診断することはできなかったようです。 高校二年生になった僕は、初夏頃に親身に支えてくれる良きパートナーもでき、また「平凡な」高校生活を過ごしていました。 しかしちょうどその頃から、高1のときに仲が良かったクラスメートが僕と同じような状態になり不登校になってしまいました。 「仲間が苦しんでいる」それだけでも放っておけない性格に加え、「自分と同じ苦しみを味わっているのか」といてもたってもいられなくなった僕は元クラスメートの仲間たち等と学校前の早朝に家まだ迎えに行ったりと自分勝手に尽力しました。 しかし彼は結局、戻ってくることはありませんでした。 もっと的確な対応ができたのではないか、無我夢中になりすぎて距離感を間違えすぎていたのではないか、 あの頃のことを思うと後悔ばかりがあふれてきます。 そしてその影響からか、僕自身もまたちらほらと学校を休み始めてしまいます。 パートナーの支えもあり何とか登校することが増え安定してきたと思っていました。 しかし9月に行われる文化祭関連で一悶着あったりと段々僕の心内は崩れそうになっていきます。 不安定な僕はパートナーを無意識に傷つけ疎遠になっていき11月のはじめに別れました。 対象喪失によりここで崩れると思いきや持ちこたえ、後悔と感謝とこれから頑張ろうという気持ちで悲しみを誤魔化していました。 そんな不安定すぎる状態のまま行った修学旅行で全てが崩れました。 独りになりたくてもなれず、ハードなスケジュールにもついていけず、だれとも会いたくなくなってしまっていた状態での集団行動。 地獄でした。 修学旅行明けの一週間程は自分を誤魔化し登校していましたが、本当の地獄はこれからでした。 一学期、二学期でちょくちょく休んでいたツケがここで来ました。 誰とも会いたくない独りでいたい。 何もしたくない何をする気も起きない。 でも、 欠席すると日数の関係で退学。 考査である程度の点数を取らないと成績不良で退学。 学校からは「もう諦めろ」という圧力。 元来の性格から本音を隠し偽り、抱え込むタイプで誰にも頼れず、 ただただ夢か現実かもわからない毎日を独りで生きました。 登校し、机に伏せ、誰とも話さず、必要な授業のみ出席し、めまいで倒れそうになりながら帰宅。 話す相手は母親かカウンセリングの先生、精神科の先生、担任の先生くらいでした。 あの頃、本当に「現実に」生きていたのかは今でもわからないほど辛辣な日々でした。 しかし大人の方々の支えと自身の意地で出席も成績もクリアした僕は段々と「普通」に戻ることができました。 そんな日々のなかで嫌になるほど自分と向き合い、様々なことを学びました。 対処法や自分への対応についてたくさん、たくさん知りました。 でも、現在学校に行けません。 春秋に起こる季節性の躁鬱かもしれませんが、不思議と今の心は安定しています。 ただ自分の四肢が異物であるような感覚など、過去の感覚を彷彿とさせるようなことがあるのも事実です。 精神薬、睡眠薬、ADHD(注意欠陥、多動症)の傾向があるのでその作用を抑える薬は一年以上服用していて自己管理できています。 先日は抗鬱剤を処方されました。 学校に行きたくないわけじゃないのですが、行きたいわけでもなくて… 今の引き籠り生活に悪い意味で慣れてしまったのかもしれません。 どうしても、どうしても「一歩踏み出す勇気」がでません。 「きっかけを作ろうとする意欲」がわきません。 「頑張ろう」って、思えないんです。 たったこれだけの読みにくい昔話じゃ僕のことを大して知っていただけないとは思います。 でももう、自分じゃどうすればいいか「わかってる」のに出来なくて。 どうしたらいいか「わからなくて」。 仲間に頼れなくて自分に溺れる弱虫な僕にはもう顔の見えない第三者的立場の皆様にご意見をうかがうのが精いっぱいで… 長々とした内容になってしまい申し訳ありません。 最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。 それだけでも感謝の気持ちで一杯で少し気も楽になった気もします。 助けてください、とは言いません… 何かあたたかいお言葉、アドバイス等いただけたら、とても、とても嬉しいです。 よろしくお願いいたします。